(その八)国の入れ替え

ふたりの日本人の若者がパリとリスボンに向かっている頃、京都では祇園祭の準備が着々と進んでいた。
祇園祭は江戸時代までは6月7日から14日に催されていた。
「都をどり」が4月に開催され、「鴨川をどり」が5月に、そして、「祇園祭」が6月に、そして、「大文字の火」が7月に催されて京都の盆の送り火は終わる。
ところが、明治になって祇園祭は、7月17日を前祭(さきのまつり)とし、24日を後祭(あとのまつり)と分け両日に山鉾巡行が行われるようになるが、1966年(昭和41年)になって更に、統一され山鉾巡行は7月17日のみとなった。
その山鉾の中には、日本に存在しない絵柄が多く挿入された。
鶏鉾には、「トロイの戦争」が描かれている。
鈴鹿山鉾の前掛にはラクダとピラミッドが描かれている。
祇園祭が明治になって大きく変わったのだ。
『日本の歴史の分岐点がここにあったんやな・・・』
藤堂頼賢が呟いていた国盗り物語が明治維新時にも起こっていた証明かもしれない。
1901年、ニューヨークで出版された「ユダヤ百科辞典」の中で、スコットランド出身のノーマン・マックレオドが、1867年、彼が横浜で刊行した「日本古代史の縮図」という本の内容が記載されている。
その中で、日本の天皇家は今から2700年前に滅び去った北イスラエル(首都サマリア)と南ユダ(首都イェルサレム)連合王国の正当な王位継承者であるという見解を発表し、明治維新直後の日本の状況を克明に記している。
彼は日本人の食事習慣や日常生活を観察してこう記している。
“日本人だけが、その他の東洋民族とは全く異なった行動様式を持っており、それがどうして起こったかというと説明がつかない。しかし、古代ユダヤ人が住み着いたとすれば、よく理解できる”と。
更に、彼は強調した。
“旧約聖書に見られるさまざまな事柄が、明治維新直後の日本人の生活全般にわたって認められる”
ノーマン・マックレオドはユダヤ人でも、キリスト教徒でもない。
京都・伏見で明治天皇の行幸の様子を観た彼は、明治天皇の顔がロシア系ユダヤ人貴族であるフォン・エプスタイン家のものであったことのみならず、周りの日本人の顔もまた、江戸時代の日本人とはまったく違ったものであったことに驚愕したらしい。
日本という国が一体どうやって入れ替わってしまったのか。
歴史の謎だ。