(その八)霧と鼎と花

ふたりの日本人の若者が、同じ瞬間に地球から離れている1時間45分の共有時間の中で同じ想いを馳せていたら、ふたりの間に横たわる物理的空間はゼロに帰するという奇跡が起こったのである。
古今東西とは、時間軸と空間軸を交差させた時空間の世界観を表現しているが、我々人間が生きている世界観では、時間軸と空間軸は絶対に交差しない世界観であることを忘れてしまわせる。
自分以外の他者とは絶対に交差し得ないのが、我々ひとり一人が生きている世界観であるにも拘わらず、自分の世界と他者の世界を同一視する錯覚に陥ってしまうのは、まさに、時間軸と空間軸が実は交差していないのに、交差していると勘違いしているからである。
ロンドンからリスボンに向かう一次曲線、つまり、直線と、成田からパリに向かう一次曲線、つまり、直線は絶対に交差し得ないのに、交差するべくお互いに向かっているのは、明らかに錯覚以外の何者でもないのだ。
なぜなら、地球上、厳密に言えば、地球の表面上で生きている世界で、直線など一切在り得ないのだ。
直線は実は一次曲線であって、真直な一次曲線など在り得ないのである。
コロンブスやマゼランはそのことを理解していたから、西回りでインドを目差したし、前進し続ければ世界一周できることを知っていたのである。
時間は飽くまで概念であるのに対して、空間は飽くまで観念である証明に他ならない。
地球は真円球ではなく、楕円球であるから、その中心は一つではなく、二つあるのが当然である。
だから、地球上ではすべて二元論に陥ってしまうわけだ。
しょせんは空間軸だけのストーリーなのに、そこに1929年から1942年までの時間軸が絡んでくるから古今東西の話になるわけだ。
しかし、それとて、しょせんは1時間45分内の奇跡的な出来事なのであって、
それを過ぎれば、また、もとの木阿弥に戻ってしまう。
ロンドンとパリの間にリスボンが鼎と存在する。
ロンドンは霧の都だ。
パリは花の都だ。
だから、
リスボンは霧と花の間の鼎だ。
リスボンにサンヘドリンの本部がある所以はこの点にある。
ふたりの若者が、霧と花の間の鼎の懐に今向かっているのである。