(その八)花の都・パリ

日本航空JL5055便でフランスのパリに向かっていたその日本人女性は、3年前のパリでの出来事を思い出していた。
彼女が18才の時である。
モンマルトルにあるムーラン・ルージュの舞台で、彼女の母親が踊っているのをはじめて見た時のことである。
ムーラン・ルージュは文字通り「赤い風車」という意味で、赤い風車を店の構えにしている世界的に有名なキャバレーだ。
エルビス・プレスリーやフランク・シナトラもこの舞台を踏んだことがあり、特に、フランスに劣等感を持っているアメリカ人のスターたちにとって、ムーラン・ルージュはカーネギー・ホール以上のネームバリューを持っていたのである。
ムーラン・ルージュの舞台から生まれたフレンチ・カンカンだが、エッフェル塔が建てられた同じ年の1889年に、赤い風車が産声を上げたのは、何かの因縁なのだろうか。
彼女の母親がムーラン・ルージュの舞台に立ったのは、リスボンに本部があるサンヘドリンからの指令によるものだったことを、18才の彼女が知る由もなかったが、3年後に知って再びパリに向かうことになるなど、いまだに信じられなかった。
パリが陥落する直前の1940年6月18日、シャルル・ドゴールはムーラン・ルージュの席から舞台を眺めていたが、部下のサインを受けて徐に席を立った。
部下の引率に沿って、シャルル・ドゴールはレンヌ通りがモンパルナス大通りに突き当る処にあるレンヌ広場に向かった。
1940年5月にはじまったヒットラー率いるナチス・ドイツ軍のフランス侵攻とパリ占領に対して、シャルル・ドゴールはレンヌ広場から徹底抗戦をパリ市民に呼び掛けたのである。
太平洋戦争末期にアメリカ軍は沖縄本島を侵攻、那覇を占領したが、沖縄市民の老若男女が徹底抗戦して壊滅した。
若しも、アメリカ軍が本州本島を侵攻、京都を占領する挙に出たら、京都市民は徹底抗戦したであろうか。
後の1944年8月25日に連合軍のノルマンディー上陸作戦が成功して、パリが解放されたのは、シャルル・ドゴールの徹底抗戦の呼び掛けにパリ市民が呼応したからである。
いわゆる、多くのパリ・レジスタンスの犠牲の上にパリ解放があったのである。
果たして、京都レジスタンスは生まれていただろうか。