(その八)世界の鼎・リスボン

英国航空BA1811便でポルトガルのリスボンに向かっていたその青年は、最後部の席でひとり瞑想に耽っていた。
リスボン空港で待ち受けているはずの男に想いを馳せていたのだが、なにしろ、ポルトガルに来たことなど一度もない青年にとって、およそ1時間後に足を踏み入れる地に想いを馳せることはほとんど想像力に頼るしか、なかったのである。
『彼はすでにリスボン空港に来ているはずや!』
リスボン空港は別称、ポルトガル人、特に、リスボン在住の人たちの間ではポルテラ空港と呼ばれていて、1942年10月15日に開業し、第二次世界大戦中、ドイツとイギリスの航空会社両方に使用されていたという特異な経験を持つ。
ヒットラー率いるナチス・ドイツ軍が、花の都パリを陥落させたのが、1940年8月の夏だった。
フランス革命100周年を記念して、1889年にパリで開催された第4回万国博覧会前に建造されたパリのシンボル、エッフェル塔をセーヌ川対岸のトロカデロ広場から得意げに睥睨するヒトラーの映像は、世界を駆け巡った。
1942年の映画「カサブランカ」は、まさに、パリ陥落直後に製作され、パリ陥落直前にパリ脱出を図る人々の姿を生々しく映し出していた。
パリを脱出した人たちの多くは、地中海対岸の北アフリカ・モロッコの首都カサブランカに亡命した。
北アフリカの多くはフランスの植民地だったが、当時は大英帝国を中心の世界であり、イギリスとフランスの両方を宗主国とする国が多かった。
エジプトもその中の一つであった。
ところが、フランスの縄張りであった北アフリカ地域にも、ヒットラー率いるナチス・ドイツ軍の威影がひたひたと迫り、カサブランカももはや安全な地でなくなったことを悟った人たちは、最後の安楽の地アメリカを目差したが、カサブランカからアメリカに直接飛び立つことは不可能だった。
対岸のユーラシア大陸の西端にあるポルトガルの首都リスボンは、まさに、大西洋に面したユーラシア大陸の突端であり、多くの探検家たちが望郷の念で船から睥睨したジブラルタル海峡が間近にある古い都だ。
西回りでインドに向かったコロンブスが漂着したアメリカ大陸は、ヨーロッパとの鼎としての重要な都市でもあった。
まさに、ポルテラ空港は、アメリカ大陸とヨーロッパ大陸、延いては、ユーラシア大陸との間の鼎であったのだ。