(その八)追憶の渦

成田空港から午後9時55分に飛び立ち、パリのシャルル・ドゴール空港に翌朝午前4時25分到着予定で向かっていたボーイング77W型ジェット機日本航空JL5055便の中で残酷な出来事が起こったのである。
その引きがねが『しまった!』の内なる叫び声であったのが実に象徴的だ。
「恵美子、どうしたんや?」
聡の声でいわゆる現実の世界に戻った恵美子は、何かヒントを得たのである。
恵美子はデジャブ現象に陥っていた。
ふたつの事象の間に偽の時間が入り込む際にデジャブ現象が起こる。
未来の事象が過去の事象と混在することをデジャブ現象と言い、いわゆる、今起きている事象が過去に経験したことの再現なのだ。
過去や未来という代物が時間ではない証拠であり、そういう意味では偽の時間と言ってもいいだろう。
それとも、偽の時間こそが空間と言ってもいいだろう。
マイナス一次元の世界を偽の世界、映像の世界とも言える。
プラス一次元の世界を本物の世界、実在の世界とも言える。
そういった現象が記憶の為せる業であることは言うまでもない。
記憶は時間ではなく空間であることの見事な証明である。
聡が今、声を掛けてきた。
倫子は過去に、声を掛けてきた。
聡と倫子との間に記憶の共通性があるからこそ、デジャブ現象が起こったのである。
過去に倫子から声を掛けられた記憶があっても、服部崇から伏見の商店街で掛けられた記憶との間ではデジャブ現象が起こらない。
その理由は、倫子と服部崇の記憶の共通性がないからだ。
況してや、服部崇はすでにこの世にいないから、二重の確率で起こらないのである。
まさに、このことは、死後の世界、いわゆる、あの世など絶対に無い証明になるのだ。
恵美子はもちろんそんな現象を論理的に洞察する知性など持ち併せてはいなかったが、聡の側にあったのだ。
延いては、聡と恵美子の間に血脈があることの証明でもあったが、恵美子には解るべくもなかった。
しかし、直感というものは正に神業である。
女性に優れた直感力が具わっているのは、血脈の伝導者である所以であり、子供を産む能力の偉大さを物語っているのだ。
二人の間に本当の兄妹の感情が生まれた理由(わけ)がここにあった。
『しまった!』
恵美子は直感した。
しかも、それは否定的な直感だった。
直感にも功罪両面があることの証明でもあった。