(その八)残酷な出来事

恵美子がパリに想いを馳せながら、輪違屋の控え部屋でボーとしていると、兄の聡が訪ねて来た。
女将の増絵の姿が見えなくなって3日が経っていたのを、母親の倫子が心配して聡に様子を見てくるように頼んだらしく、輪違屋の玄関に立ったものの、声を掛けられずにいた。
「おいでやす」
花霧という名の娘が元気よく声を掛けてきたので、聡も覚悟して言った。
花霧はまだ仕込み中の娘だが、2年の満期を終えて、最後の見習い期間に入っていた。
緊張と夢の膨らみが交錯しているのだ。
「お客はんどすか?」
聡は首を横に振った。
「春若さん、いらっしゃいますか?」
「春若ねえさんどすか、すんまへん、どちらの方どすか?」
聡は吐き出そうとした言葉を一瞬呑み込もうとしたが、以前の聡ではないという自覚が、呑み込もうとした言葉を押し返した。
「畑聡といいます」
呑み込もうとした言葉を押し返したものの、言葉自体がまだ濁っていたことに対する自己嫌悪感が押し返してきた。
一瞬躊躇した直後のことだった。
「まあ、聡兄さん!」
花霧の元気な声が奥にいた恵美子にまで届いていたのだ。
「どうしやはったんどすか?」
「こんなとこまで、わざわざ来やはって・・・」
恵美子の言葉に救われた聡は、事の仔細を彼女に伝えた。
「そうどすか・・・お母はんが・・・」
恵美子と母親の倫子の関係は、父の正三とはさすがに違っていた。
なんと言っても、自分の人生の烙印を最初に押した張本人だ。
さすがに自分の腹を痛めた相手だから、まだ惻隠の情がそこにはあった。
子供に親が烙印を押す。
これほど罪の重いものはない。
原爆を発明する罪よりも、原爆を落とす罪よりも、子供に烙印を押す親の罪の方が遥かに重い。
烙印を押された子供だから、罪意識なく原爆を発明し、原爆を落とすことができるからだ。
烙印を押されず、自然児のままで育った子供が大人になったら、原爆を発明したり、原爆を落とすようなことは自分の生命を賭けても絶対にしないだろう。
恵美子もご多分に洩れず親から烙印を押された。
特に、父親の正三の烙印意識は常軌を逸していた。
常軌を逸している正三の烙印意識が、恵美子の反物質の首に鈴をつけたのである。
そして残酷な出来事がその後起こった。