(その八)不思議な出来事

パリに向かっている女性の“しまった!”という合図がタイム・トンネルを通って、恵美子の追憶の破片を飛び散らせた。
「俺はこれからフランクフルトに行かなあかんわ!」
恵美子には何を言っているのか理解できない。
「ドイツに行かなあかんねんや!」
相変わらずぶっきらぼうな口調だが、以前の彼と随分変わっていた。
余りに唐突な話だけに、恵美子の頭はエアーポケットに入ってしまったが、印象は以前のような否定的なものではなく、自然に受け入れられるものだった。
「俺と一緒に来てくれへんか?」
予想もしていなかった言葉にはじめは鳩に豆鉄砲の様子だった恵美子だが、徐々に察しがついてきた。
「うちは祇園の芸妓おすえ?」
藤堂頼賢に理解を促すつもりで言ったのに、まるで通用しなかった。
「それがどうしたんや?」
分別のない発言だったが、理由もなく恵美子は嬉しかった。
たとえ無理な話でも、彼の意気が感じられたからだ。
ふたりで天国に行っても、男に意気が感じられなかったら、本物の女は感動しない。
ふたりで地獄に行っても、男に意気が感じられたら、本物の女は感動する。
『どうしても、うちもドイツに行かなあかんのどすか?」
藤堂頼賢は迷いもなく頷いた。
『この人には迷いというものがまるでないわ!』
ふたりだけの秘密の場所で飲むコーヒータイムは三時の幸せを恵美子に与えた。
恵美子には子供の頃からの夢があった。
パリで暮らすことだ。
理由はわからないが、なぜかパリなのだ。
しかも、パリの郊外でワインをつくる仕事をしたかったのだ。
その理由も本人はわからない。
生れた時からのDNAに摺り込まれていたとしか考えられない。
「俺はこれからパリに行かなあかんわ!」
「俺と一緒に来てくれへんか?」
藤堂頼賢からこう言われたら、即座に首を縦に振っただろう。
しかし、その夢を阻んだのが、祇園の伝統である。
中学生までの彼女はこの夢を持っていたが、高校生に進学する時に親から烙印を押されて、夢は無残にも壊された。