(その七)余震の効果

正三と倫子の表情の変化に、一沫の不安を覚えながらも、恵美子は歌舞練場を飛び出して行った。
「恵美子!」
四条通りに出たところで、背中から自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。
以前の恵美子なら、声の主が誰であるか察することができなかったが、不思議にも今ではわかるのである。
『聡兄さんや!』
一刻の猶予もない切羽詰まった事態なのに、彼女は落ち着いていた。
さすがに、その理由を洞察する域まで達していなかったが、彼女にとっては大きな変化であった。
本当の自信が沸々と湧き上がっているのが、手に取るようにわかるのである。
『同じ光景が以前に経験したこともあったわ!』
自分の頭脳が驚くほど明晰になっているから、その理由(わけ)もすぐに判明した。
『お母はんに呼び掛けられた時のことやわ!』
あの時には、恵美子は倫子から逃げるように離れていった。
況してや、自分に対して妹以上の感情を持っている聡なら、余計逃げ出したくなるはずだ。
しかし、今の彼女は違っていた。
聡の声に反応して、恵美子は後ろを振り返った。
目の前に立っていた男は腑抜けになった聡の表情ではなく、毅然として立っている男性だった。
一瞬の中で、彼女は聡を見直していた。
「お兄さん!」
恵美子の発した言葉に聡は吃驚した。
自分の発した言葉に恵美子自身も吃驚した。
「聡兄さん」
今までの恵美子は意識してそう言ってきたからだ。
聡自身もそんな恵美子の心情を理解していたからだ。
「とにかく急ごう!」
「へえ!」
やっと二人の間に本当の兄妹の感情が生まれた瞬間だった。