(その七)死の理解

歴史は繰り返す。
西洋の歴史の開祖はアダムとイブだが、日本の歴史の開祖はイザナギとイザナミである。
西洋とは、聖書の世界であり、枝分かれして、エホバ(ヤ‐ベ)の世界、父なる神の世界、アラーの世界となった。
西洋の歴史の高祖はアブラハムとサラだが、日本の歴史の高祖はアマテラスとスサノオである。
西洋の歴史の大宗はモーゼだが、日本の歴史の大宗はジンムである。
西洋の歴史の中興はダビデだが、日本の歴史の中興はオウジンである。
西洋の歴史の真祖はイエス・キリストだが、日本の歴史の真祖はタイシである。
彼らはすべて一つであり、全体である。
それが二つの芯の真意だ。
そこには、鎌倉殿も介入する余地はない。
そこには、室町殿も介入する余地はない。
そこには、太閤殿も介入する余地はない。
そこには、東照大権現殿も介入する余地はない。
そしてその最先端が藤堂頼賢と恵美子に収斂しているのである。
歴史の最先端と言い換えてもいいだろう。
恵美子にとって否定的な青い炎が、藤堂頼賢の赤い炎と混ざり合った証明を恵美子は自ら否定した。
恵美子に加担をした張本人が他ならない榊原温泉の綾子だったことに気づいた時、恵美子の全身から冷や汗が迸った。
『藤堂はん、許して!』
恵美子は未だ嘗て吐いたことのない言葉だ。
祇園の舞妓や芸妓が最初にこのことを躾られる。
自分の非を決して認めることをしない心の姿勢を最初に躾られる。
古来の日本の伝統にはない極めて異色の考え方だ。
西洋の世界の伝統にあるものだ。
その典型的な言葉が、インシュアラー、ボックラ、マレーシュに凝縮されている。
絶対に自分の非を認めないのであり、それが、自己保存という生きものが本能として具えているものなのだ。
恵美子が藤堂頼賢に自分の命を預けたことを示唆しているのである。
彼は恵美子に訊いた。
「俺と一緒に死ねるという意味なんか?」
恵美子は心底そう想ったから素直に頷いた。