(その七)赤い炎と青い炎

「すんまへん。うちは京から何処へも行きまへん・・・」
「人間を取るか、女を取るかやな・・・・・・・・・・」
余韻を持たせた恵美子の返事に藤堂頼賢の敏感な反応が、彼女の女こころに荒波を立てたらしく、恵美子は何も答えられなかった。
やはり女だ。
人間としての在り方よりも、女としての生き方を選んだのである。
どんな人間でも一生の中に、人間としての在り方を選ぶか、自己としての生き方に進むかの選択に迫られる時が必ずある。
人間社会が唯一オス社会で踏襲され、更に、全生きものの最上位を堅持できてきたのは、自己の生き方よりも、人間としての在り方を選んできたからであり、その決断を常にしてきたのがオスたる男だったからである。
メスというよりも、女という人間があまりにも決断力がなかったとも言えるのだが、そこに女という唯一の生きものの特性があり、しかも、その特性は、功的側面と言えるのだ。
組織の時代から個人の時代に移行し、且つ、男性社会から女性社会に移行する二十一世紀は、組織の時代/男性社会、組織の時代/女性社会、個人の時代/
男性社会、そして、個人の時代/女性社会という四象限の最上位象限にあたるだけに、二十一世紀は特別な世紀であることは明白である。
「決断力のある女」
二十一世紀のキーワードだ。
「出よか?」
藤堂頼賢は急にテーブルを立った。
「へえ」
恵美子は従うだけだった。
六波羅通りを東へ戻って、東山通りを渡ると、高台寺の山門に入る。
清水口の交差点に上る急坂で、前を歩く藤堂頼賢を見上げると、彼の大きな背中が余計巨大に見えて、恵美子はただ従いていくだけだった。
彼にはじめて体を許した時と同じ過ぎ去った光景が彼女の脳裏を掠め、未だ来ぬ光景を包み込むように、首筋に稲妻が走っていく。
男と女が一体感を渇望すると、首筋に位置する第六番目のチャクラが活動を開始する。
首筋に稲妻が走るのは、尾底骨の周辺に位置する第一番目のチャクラから一気に生命エネルギーが上昇して性エネルギーに変位する兆しで、性欲を催させる源でもある。
髪結い床の有平棒は、プラーナという生命エネルギーが螺旋状に身体の中を駆け巡る様を表象すると共に、脊髄の周りを上下するクンダリーニという最も精妙なエネルギーをも表現している。
西洋では、動脈と静脈の流れを表わしているらしい。
日本広しといえども、理髪店の有平棒の多さは、京都が圧倒的に多いのには、それなりの理由がある。
巨大な都と世界中から驚嘆されている東京といえども、物理的な広さは京都11区よりも東京23区の方が狭く、逆に、人口では京都11区の147万人に対して東京23区の873万人と6倍あるにも拘わらず、有平棒の数では京都の方が数倍多い。
いずれが真の都であるかは髪結い床の有平棒で一目瞭然だ。
それだけ、京都の人間の生命エネルギーの方が膨大だというわけだ。
男と女が一体感を渇望するきっかけをつくるのは、男の方からではなく、女の方からであるのに、男の欲望が為せる業であると誤解されている。
男からフェロモンホルモンなど分泌できるわけがないのは、獣類に盛りがつくとメスの性器から分泌される液が証明している。
それだけ、京都の女の性エネルギーが膨大だというわけだ。
後ろから従いてくる恵美子が発するプラーナともクンダリーニとも言えぬものを、藤堂頼賢は微妙に感じていた。
高台寺の山門前を北へ上がると、お茶屋と置屋が並んだ通りに出る。
「一条」という表札の店の暖簾を潜った藤堂頼賢を複雑な想いで眺めていた恵美子は、玄関戸の前で呆然としていた。
藤堂頼賢の腕に再び抱かれることに迷っていたからではない。
想いを通じた相手の命を一度宿した女は、青い体から熟れた躰に変身しているから、想いが熟さないと躰が言うことを利かないのだ。
『今度こそ、この人を離したら、三途の川を渡って行きはるかわからへん!』
恵美子は切迫感に牛耳られた。
デジャブ現象ではなく、はっきりと観た記憶があるのだが、それが映画なのか、小説なのか、それとも、単なる自己の妄想なのか定かではないが、絶対に定かである。
『ひょっとしたら、夢の追憶かもしらへん・・・』
現実の追憶ではなく、夢の追憶だと彼女は思うのだ。
そんなことが可能なのだろうか。
可能だとするなら、それは、自己の臨終直後のほんの数瞬間しかないかもしれない。
だが、経験の浅い恵美子が洞察できるわけがない。
だが、間違いなく追憶の光景が迫ってくる。

ふたりはパリのシャンゼリーゼ通りの一本横道に小さなホテルを見つけて入っていった。
シャンゼリーゼの辺りのホテルを探したのは、翌朝、家への帰路に入る高速道路の入り口が、シャンゼリーゼ通りの凱旋門のちょうど反対側にある高層ホテルの横から入れたからだ。
その高層ホテルやその前にある一流ホテルと、今泊ろうとしているホテルでは五倍も料金が違う。
若いふたりには不釣り合いのホテルだ。
ホテルの小さなフロントで彼が二部屋空いているかと聞くと、年老いたフロントの係が一部屋空いているという。
しかもベッドはシングルだと言う。
彼はそれでは困るからと言ってホテルを出ようとすると、恵美子が腕を引張って、ここで泊ろうと言った。
彼はひとつのベッドでふたりは無理だよと言ったが恵美子はきかなかった。
フロントの老人が宿泊帳を出して名前を書くよう促した。
ふたりは名前を書くと老人は、兄妹ならいいじゃないかと言って鍵を渡してくれた。
五階の部屋で、エレベーターは自分でドアを開ける代物だ。
部屋に入ると、以外と広い部屋で小奇麗なベッドカバーが横たわっていた。
ベッドは完全に一人用だ。
ヨーロッパのベッドはみなこんな狭いベッドだ。
彼が恵美子に先にシャワーを浴びるように言って、窓の外に向かって何も見えない外を向いた。
恵美子はバスルームに入った、シャワーの音が聞こえる、シャワーの音が変わる、彼は自然に湧きあがる想像を掻き消した。
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彼はエレベーターに乗って、恵美子の住んでいる五階のホールに降りた。
恵美子の部屋は一番奥にあった。
手を震わせながらドアのブザーを押した。
開けられたドアの前に若い青年が立っていた。
彼は部屋を間違ったのかと思ったが、
「恵美子さんのお部屋でしょうか?」
と聞いてみた。
「そうですが」
と言った青年の顔色が変わった。
「兄ですが、恵美子はいますか?」
と聞きながら、胸から心臓がとび出しそうになってその場に倒れそうになったとき、奥から恵美子の声が聞こえた。
「誰が来たの?」
そして、バスローブ姿の恵美子が彼の前に現れた。
彼の顔を見た恵美子は顔面蒼白になった。
「やあ、元気そうだね、女優になったらしいね。サンフランシスコのスタンフォード大学で講演するために、パリからやってきた。お父さんとお母さんに会ってきた。元気でいたから安心していいよ」
淡々としゃべる彼の話が、恵美子にはほとんど聞こえていない、何を言っていいか分からない程混乱していた。
「じゃあ、もう行くよ」
と言って彼はエレベーターの方へ歩いて行った。
「ちょっと待って!サンフランシスコの後は?」
と必死に声を絞り出した。
「これは内緒だが、サンフランシスコに行くのは取りやめてテヘランに行く。明後日にテヘラン空港の革命広場で講演する。じゃあ、ああ、そうそう、パリ
郊外で君と一緒にかわいい家に住んで、ワインを造りかったね、それが僕の夢だった」
と言ってエレベーターに乗った。
恵美子はエレベーターまで追いかけてきたが、ドァーが半分閉まりかけていたすき間から見えた彼の表情は、今まで見たこともない、まるで死人のようだった。
呆然と部屋に戻ると、青年が電話をかけていてびっくりした様子で、すぐに受話器を降ろした。
その電話をとって、日本の先生に電話をした。
「彼がさっきここに来ました。わたしのこと、何も聞かされてないようでした」
恵美子の話を聞いていた先生は、受話器をはなして誰かに替わった。
「もしもし、恵美子さん。わたしです」
声ですぐ誰なのか分かった。
「あの時のことは、あなたの誤解です。三人の賊が先生の部屋に忍び込んでいたところを出くわしてあんなことになったんです。それよりも大切なことは、わたしは先生のこと好きです。しかし、先生にとって恵美子さんがすべてです。だけど先生は、自分の立場がますます危険な状態になっていく中、あなたが、女優になって先生の妹さんということが世間に知れてしまった。あなたを危険にさらすことは、絶対に避けたいと言ってあなたに連絡を取られなかったのです。あなたに恋人が出来たことは、みんな知っていましたが、そんなこと誰も、先生に言えることは出来なかったのです」
もうこれ以上恵美子は聞くに耐えられなかった。
「悪いけど、独りにして」
と言って青年を部屋から出し、
そして、両親の家に電話をすると、母が出てきた。
事情を話しながら恵美子は号泣した。
母が、心配していた最悪の状態になったと思い恵美子に言った。
「男の方が女よりも誠実よ」
「これから起こることは、すべて女の性(さが)が原因だということをよく分かって受けとめなさい」
と言って電話を切った。
恵美子は、母の言ったことを理解しかねていたが、二日後にその意味を思い知らされることになるのだった。
恵美子は、ベランダから空を見上げた。
真っ青な空だった。
彼は、テヘラン行きの便の空からLAを見下していた。

ここで過ぎ去った光景は閉じ、未だ来ぬ光景が目の前に現われてきたが、恵美子はそれ以上観るに耐えなかった。
ただ、そこには、赤い炎と青い炎が、はっきりと見えるだけだった。