(その七)一時の幸せ

『恵美子!やっとやな!』
彼の声がやっと彼女に伝わった。
一瞬、恵美子は自分の存在を疑ったが、それは、単なる錯覚であった。
だが、少し違う。
女はそんな時いとも簡単に妥協する。
『まあええわ!藤堂はんさえ生きてはったら・・・』
二人は敢えて、六波羅通りを西に下った。
人間もやはり動物なのか、彼らは二人がはじめて出逢った場所に自然に戻っているのだ。
本来なら南を下るところだから、東山通りを下ればいいのに、敢えて、六波羅通りを西に下った。
思い出の場所があるからだ。
ふたりしか知らない秘密の場所があるからだ。
お互い確認をしなくても、行くべき場所がわかっていた。
愛し合うふたりの間に時空の世界が介入すると、その分過去に戻らなければならない。
ただの人間関係なら、過去や未来という似非時間の空間が常に介入していて、『今、ここ』にいることは殆どない。
常に幻想の世界、映像の世界にいるから、時空間の介入は常態のことだが、愛し合うふたりの間には『今、ここ』しかない。
それだけに何らかの事情で、今回の藤堂頼賢と恵美子のような不測の事態で、未来が介入すると、その分過去に戻らなければならない。
高々2時間の介入だったが、死ぬ直前の地獄が三千年世界というぐらいだから、2時間といえども半端な時間ではなかった。
そのことはふたりが一番よく知っていた。
「いらっしゃい!」
懐かしい声が店の奥から聞こえてきた。
店の奥さんの声で、主人はそもそも寡黙な人物だから、目だけで挨拶してきたが、声も目もふたりの姿を見ていかにも嬉しそうだった。
ふたりの事情などまるで承知していないのだが、醸し出す空気でわかるのだろう。
店の夫婦は余計な口は一切叩かない。
「今日はコーヒーだけでいいですか?」
奥さんが気を利かして恵美子に訊ねた。
恵美子は何も言わず頷いた。
藤堂頼賢も何も言わず頷いた。
一時の幸せだった。