(その六)詐称民族

泉涌寺の正式住所は京都市東山区だが、伏見区との境界線上にある。
伏見の繁華街に入る直前で竹田通りは大きく右へカーブを切るが、その手前で左を逆戻りするように、泉涌寺の参道が拡がる。
泉涌寺が東山区と伏見区の境界線になっているわけである。
背後に東山三十六峰の最南端に月輪山があり、その麓に泉涌寺の境内が広がっている。
鎌倉時代の後堀河天皇、四条天皇、そして、江戸時代の後水尾天皇以下幕末最後の孝明天皇までが月輪陵、後月輪陵として葬られている。
ところが、孝明天皇の第二子・睦仁、つまり、明治天皇の伏見桃山陵は広大な敷地を有している。
親の孝明天皇が十把一絡げの後月輪陵に葬られているのに、その子が広大な伏見桃山陵に葬られているのはおかしな話だ。
自分の親を扨置いて堂々とした墓に入るだろうか。
明治天皇の子は大正天皇だから、大正天皇自らか、大正天皇の摂政として政り事を司っていた昭和天皇が桃山陵を建造したのは間違いない。
何故、孝明天皇の後月輪陵に明治天皇も葬られなかったのか、謎だらけだ。
藤堂頼賢は真直な人間だけに、正面から堂々と対決しようとした。
「霊明殿に安置されてある歴代天皇の位牌を見学したいのですが・・・」
泉涌寺の担当官は宮内省から派遣された人間で占められていたが、その日の皇太子殿下の突然の発表で覚悟していたのか、藤堂頼賢の唐突とも思える申出を受け入れたのである。
一般出入り禁止とされていた霊明殿に、3人の付き添いの担当官が藤堂頼賢を案内した。
「第四十代天武天皇から第四十八代称徳天皇までの位牌は何処にありますか?」
「第九十六代後醍醐天皇から第九十九代後亀山天皇までの位牌は何処にありますか?」
万世一系の天皇家のアキレス腱をずばりと突いてきた藤堂頼賢に対して、小細工をしても仕方ないと覚悟していたのか、霊明殿が再建された明治17年以来、そのままにしてあった位牌安置所に彼を引率した。
第三十八代天智天皇と第四十九代光仁天皇の位牌の間が不自然なのである。
本来、第四十代天武天皇から第四十八代称徳天皇までの9個の位牌が並べられてあったところが空いているのである。
更に、第九十六代後醍醐天皇から第九十九代後亀山天皇までの4個の位牌が不自然な状態で置かれてあったのだ。
誰が見ても、後で置き換えられた様子が窺えるのである。
「何時置き換えられたのか?」
藤堂頼賢は3人の担当官に敢えて問うことはしなかった。
問う必要もなかった。
答えは歴然としていたからだ。
「明治維新とは、国換えだったのですね?」
独り言のようにポツリと呟いた藤堂頼賢に彼らは無言で肯くだけだった。