(その六)復讐の民族

「鴨川をどり」の舞踊劇「日本誕生」が上演されていた頃、藤堂頼賢は伏見に向かっていたのである。
言うまでもなく彼の爪先は泉涌寺に向けられていた。
2668年の偽りの日本の歴史に彼の磨き研ぎ澄まされた爪を立てるためである。
泉涌寺の奥殿として一般公開を禁じている霊明殿が彼の標的であった。
霊明殿には、天智天皇までと、光仁天皇から昭和天皇までの歴代天皇・皇后の位牌(尊牌)が安置されている。
つまり、天武天皇系だけが外されているわけだ。
ところが南北両朝の天皇の位牌(尊牌)は大切に安置されているという。
しかも霊明殿が再建されたのは1884年、明治17年だ。
つまり、霊明殿は明治天皇による再建で、京都御所の皇妃御殿を移したものであり、霊明御座所も明治天皇により京都御所の御里御殿が移築されたものだ。
更に不可解なのは、中国の楊貴妃を祀る観音堂があることだ。
楊貴妃は中国、唐の時代の人物。
西暦719年生まれで幼名は玉環(ぎょくかん)と云う。
貴妃は皇妃としての順位を表す称号である。
西暦735年、玉環は玄宗皇帝の第18皇子の妃となるが、玉環は貴妃の称号を得て次第に玄宗皇帝の寵愛を受けるようになった。
その後、玄宗皇帝が政治を顧みなくなり、楊貴妃の一族が勢力を伸ばし、政治は乱れに乱れた。
腐敗、混乱する政治の中で起こるべくして起こったのが安禄山の反乱である。
逃げ落ちる玄宗皇帝を護衛する近衛兵からも「楊貴妃は国難を招いた元凶である」との不満が噴出し、玄宗皇帝はやむなく楊貴妃を処断する。
僅か38歳でこの世を去った楊貴妃だが、亡くなったのは身代わりで、楊貴妃は生きながらえ、山口県長門市油谷(ゆや)町に流れ着いたとの伝説が油谷町の二尊院には残っていて、楊貴妃の墓もあるらしい。
明治天皇が現在の泉涌寺を創建し、その際に一緒につくった楊貴妃観音堂伝説は山口県油谷町の二尊院の伝説が起源であるというが、明治天皇と一体どんな関係があるのだろうか。
その秘密は同じ山口県熊毛郡田布施町にあるらしい。
長州と明治天皇とは深い繋がりがあるらしい。
その秘密の鍵を解くのが泉涌寺というわけだ。
恵美子はそのことを藤堂頼賢に言いたかったのだ。
藤堂頼賢に秘められた強烈な復讐の念が、原日本民族の遺伝子に深く関わっていることが明らかにされていくのである。