(その六)目差すべきもの

日本武尊(ヤマトタケルノミコト)と聖徳太子は、日本の歴史の中で特別な存在であり続けた。
天皇が日本の歴史の中心であり続けた中で、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)も聖徳太子も皇太子の立場でありながら遂に天皇にはなれなかったが、歴史の中心人物であり続けたのは何故だろうか。
歴史には常に表と裏があるようだ。
真実の歴史が表ではなく裏にあったわけである。
虚偽の歴史が裏ではなく表にあったわけである。
真実が表で虚偽が裏なら些かでも納得できるが、虚偽が表で真実が裏なら一体何を信じたらいいのだ。
真実の歴史が表の世界で虚偽の歴史が裏の世界なら些かでも納得できるが、虚偽の歴史が表の世界で真実の歴史が裏の世界なら一体何を信じたらいいのだ。
人間社会とは一体如何なる世界なのだろうか。
人間社会だけに言葉があるが、一体何のためにあるのか。
自然社会の生きものにも言葉に似たものがある。
鳴き声だ。
これも人間が決めつけた言葉だ。
鳴き声は最低限の意思の伝達のためにある。
意思の伝達をしなければならないのは、自他の区分けが生じた結果であり、鳴き声も言葉も自他の区分けがあるゆえ派生したものである。
自他の区分けは生きものの基本本能と大きく関わっていて、静止しているものが運動する際に自他の区分けが生じる、つまり、動物の誕生である。
動物と植物・鉱物の差は運動範囲の問題だけであって、運動範囲が最も少ないのが鉱物であり、その次に植物であり、最もダイナミックは運動範囲を有しているのが動物、すなわち、アニマル(Animal)だ。
アニマル(Animal)の語源はアニメーション(Animation)、つまり、動画面である。
要するに、運動(animate)するものはすべてアニメーション(Animation)、映像であり、アニマル(Animal)もしょせん映像というわけだ。
映像(映画)には音も要る。
それが鳴き声であり言葉なのである。
要するに、最低限の意思の伝達とは、生きものの基本本能の実行のためである。
種の保存のための交尾と外敵からの防衛が生きものの基本本能であり、その方便としての鳴き声である。
言葉は鳴き声の派生種であり発展種であるが、種の保存のための交尾と外敵からの防衛のための基本方便であることには変わりない。
心や想いを鳴き声や言葉に変換するのは不可能だ。
それを変換しようとするのだから無理が生じる。
アナログ情報をデジタル情報に変換するには無理が生じる。
心や想いはアナログ情報だ。
以心伝心の世界だ。
阿吽の呼吸の世界だ。
肝胆相照らす仲の世界だ。
一方、鳴き声や言葉はデジタル情報だ。
以心伝心の世界では通用しない。
阿吽の呼吸の世界では通用しない。
肝胆相照らす仲の世界では通用しない。
デジタル情報は0か1かだ。
デジタル情報はイエスかノーかだ。
デジタル情報は好きか嫌いかだ。
デジタル情報は愛か憎かだ。
デジタル情報は真実か虚偽かだ。
言葉は鳴き声の派生種且つ発展種であるがゆえに、真実と虚偽のダブルスタンダードになってしまった。
本音と建前の世界が人間社会だけにあるのは、人間だけがダブルスタンダードの言葉を駆使するからである。
歴史とは意思の伝達の一種だ。
結果、表と裏の歴史が生まれた。
だが、問題は表と裏が逆さまになっていることにある。
どうやら、本音と建前を使い分ける生きもの・人間とは、建前が表で本音が裏らしい。
本音が表で建前が裏なら些かも納得できるが、建前が表で本音が裏なら一体言葉の本義は何処にあるのか。
本音が表で建前が裏なら些かも納得できるが、建前が表で本音が裏なら一体何を信じたらいいのだ。
本音の歴史が表の世界で建前の歴史が裏の世界なら些かも納得できるが、建前の歴史が表の世界で本音の歴史が裏の世界なら一体言葉の本義は何処にあるのか。
本音の歴史が表の世界で建前の歴史が裏の世界なら些かも納得できるが、建前の歴史が表の世界で本音の歴史が裏の世界なら一体何を信じたらいいのだ。
従来の人間社会のどんでん返しが、「鴨川をどり」の最終目的であったとするなら、これからの人間社会は何を目差せばいいのだろうか。