(その六)復讐の国

映画「日本誕生」の原作は、言うまでもなく、日本の公式歴史書である古事記と日本書紀、通称、「記紀」であり、1959年10月25日に公開された。
当時の日本最大の映画会社・東宝の1000作記念としての大事業である。
あらすじは、
“先ず、伊邪那岐・伊邪那美の両神の国産みを中心に日本神話の幻想的な映像から始まり、主題である日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の物語に入る。
小碓(オウス、後の日本武尊)は、その勇猛な性格を父、景行天皇に警戒され、九州の熊襲征伐を命じられる。
巧みな計略で見事に熊襲を討ち取った小碓は、弟の熊襲建(クマソタケル)から日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の名を与えられる。
しかし大手柄を建てて都に帰った日本武尊(ヤマトタケルノミコト)に、天皇は休む間もなく東国の征伐を命じた。
“父は自分を嫌っているのか”
沈痛な気分で、途中、伊勢の倭姫(ヤマトヒメ)を訪ねた日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は、一振りの剣(天叢雲剣、別名、草薙の剣)を与えられて力付けられ、その剣の由来を聞く。
それは神代の昔、須佐之男命(スサノオノミコト)が八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治した際に手に入れたものであった。
剣は、東国でだまし討ちにあって猛火に囲まれた日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の命を救う。
だが、帰国途上で日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は、反逆をたくらむ大伴一派の攻撃にあい、命を落とした。
彼の魂は1羽の白鳥となって空に向かい、大伴の一味と手勢は神罰により洪水と溶岩流に飲まれて全滅した”とここで終わっている。
かくして、日本が誕生したと言うのである。
つまり、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が日本という国家の高祖ではなく、太宗と言うわけだ。
映画では、三船俊郎が日本武尊(ヤマトタケルノミコト)と須佐之男命(スサノオノミコト)の二役を演じているが、恰も、須佐之男命(スサノオノミコト)と日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は同一人物であると言いたげである。
倭姫(ヤマトヒメ)には田中絹代を、そして、天照大神(アマテラスオオミカミ)には原節子を配している。
まさに、当時の最重要俳優が、劇の中でも重要な役を演じていた。
そして、特筆すべき点は、敵役である弟の熊襲建(クマソタケル)を鶴田浩二が演じていることだ。
三船俊郎と鶴田浩二は戦後日本映画界の二大スターであり、三船俊郎が宮本武蔵を演じれば、鶴田浩二は佐々木小次郎を演じる。
「日本誕生」の映画は、敵役に過ぎない弟の熊襲建(クマソタケル)が、実は日本建国の歴史に大きく関わっていることを示唆していた。
熊襲(クマソ)は、後代、肥後の国と称され、明治維新後は熊本県となったのだが、その語源は熊襲(クマソ)から由来している。
日本という国は東西文化の国だと言われ、何かにつけ、東と西の対立が起源にある。
初代、神武天皇の東征からして、日本は西から東へと向かう文化らしい。
アメリカが東から西へ向かう文化と正反対である。
ニューヨークからカリフォルニアへ。
京都から東京へ。
「記紀」での日本誕生は、紀元前660年の初代・神武天皇の即位から始まり、現在の125代平成天皇へ万世一系で繋がるというわけだが、「記紀」のあらすじは余りにも齟齬があり過ぎる。
第十代・崇神天皇が実質上の初代という話も雲の上のような話だ。
第十五代・応神天皇が実質上の天皇家の開祖だという話に一番信憑性がありそうだが、その子供である第十六代・仁徳天皇との関わりが希薄過ぎて、この親子の関係にも疑惑の念が生じる。
しかも、応神天皇の母親である神功皇后が摂政として日本を支配していた話は、彼女の夫である第十四代・仲哀天皇の名と相俟って、もう完全に作り話としか思えない。
末子相続の慣習から長子相続の慣習に移った時代が、第十五代・応神天皇と第十六代・仁徳天皇との間で為されているのが象徴的だ。
この親子二代、若しくは、親・子・孫三代の間で、いわゆる、易姓革命が起こっていると推測するのが最も信憑性ある歴史観だろう。
「鴨川をどり」の当日に第百二十六代天皇になるべき徳仁皇太子殿下が退位表明をされたことと因果関係があったのか、それを推し量ることは、今まだ出来ない。