(その五)幕が開く直前

「鴨川をどり」の日がついにやってきた。
その朝、東京で大変な事件が起こっていたのであるが、西の京はいつもと変わらない朝だった。
恵美子は東山の実家から先斗町の歌舞練場に向かった。
母の倫子も、父の正三も、そして、兄の亨も聡もいつもと変わらない様子で見送ってくれたのだが、それが却って不気味であった。
水鳥の泳ぐ様は一見優雅だが、水面下では大変な喧騒ぶりであるように、今朝の畑家は一見平和そのものだったが、ひとり一人の心はそれぞれ揺れ動いていた。
今日が「鴨川をどり」の日であることを知らない者は誰もいないのだが、恰も、余所事である。
かといって、お互いに自分の予定は決めている。
先斗町の歌舞練場で鉢合わせすることはわかりきっているのだ。
成り行きという運命に身を委ねる覚悟はできているのだが、傍に付き添う人間によって、その後の運命が大きく変わる可能性、否、危険性を秘めているといった方が適切である。
それが各々の宿命とするなら、人生とは途轍もない興奮性を帯びていることになる。
輪違屋に寄った恵美子は、挨拶するため女将の増絵の部屋に顔を出したが、増絵も照らし合わせたようにいなかった。
『嵐の前の静けさみたいやわ・・・』
恵美子が増絵の部屋を覗いた際、テレビが点いていて、東京で大事件が起こっているニュースが放送されていた。
関心がなかった恵美子は、テレビの画面を黙殺した。
人生には大きな分岐点が何箇所かある。
右に行くべきか、左に行くべきか。
一回目の分岐点の確率は1/2の50%だが、N回目の分岐点の確率は1/2Nになり、その極限値はLim1/2N(N→∞)=0%になる。
多くの人生の分岐点を経験すれば、その経験の結末は無(0)になる。
況してや、恵美子の今回の経験の黙殺は抹殺に匹敵した。
つまり、何事が起こってもその結末は既知の事実だけであった。
だが、テレビの画面の黙殺は大きな結末を決定的にした。
恵美子は先斗町の歌舞練場の玄関に立った。
「まあ!恵美子さん!」
背中の方から懐かしい声がして、その主は誰であるか、恵美子はすぐに察した。
『多分、来てくれると思ってたわ・・・』
内心の呟きを察知したのか、綾子の表情が崩れた。
「綾子はん!よう来てくれはって・・・」
恵美子は心底嬉しかった。
ふたりが再会の喜びに浸っているその後ろで、一般の連中の間でパニック現象が起こっていたのだが、彼女たちはそのことに気がつかなかった。
東京で起こった大事件が既に京都の町にも大きな影響を及ぼしかけていたのである。
二人が揃って歌舞練場の玄関を潜ると、表の喧騒は内の喧騒にも既になっていた。
「春若はん!大変なことが起きたわ!」
増絵が恵美子を見つけて飛んできたが、恵美子も綾子もただ呆然としているだけだった。