(その五)「虎」の理由(わけ)

藤堂頼賢は、「鴨川をどり」を終えるまで逢わずにいようと決心していた矢先の恵美子からの連絡だけに一瞬躊躇ったが、事情を聞いては放っておけなかった。
「そういう話なら、自分にも関係があるわ・・・」
「ええ!?」
話の要点は掴めないが、彼女の直感という琴線には触れたようだ。
あの事件があった時のことを恵美子は思い出してみた。

「この辺は伏見云うように、複雑な土地でな・・・」
恵美子の心情を慮った藤堂頼賢の祖父が、話題を変えてくれたのである。
「なんで伏見云うか知っておいやすか?」
傍から藤堂頼賢の祖母が助け舟を出してくれた。
「いえ知りまへん」
恵美子もやっと緊張の糸が全部解れて、自分の言葉で喋ることができたようである。
「この辺の人は、みんな伏せて見ることしかでけへんぐらい身分の低いことから、伏見て云われるようになったんえ・・・」
今度は祖父が助け舟を出してくれる。
「帝はんの世話をしてた連中が、この辺に住んどったのに、大閤が聚楽第を関白に譲って、伏見城を建てよったのが、不運の付きはじめやった・・・」
「聚楽第は今の二条城の辺にあったのに、なんで、わざわざ伏見にまで移ってきたんかようわからんけど、この辺の連中をこき使いよった・・・」
「あんた、石川五右衛門って聞いたことあらへん?」
横から祖母が恵美子に訊いてきた。
「大閤はんに釜茹の刑に遭うた盗賊どすか?」
そう言った直後に、恵美子は、門の「石川」の表札を思い出して、呆然とした。
「ああ!」
老夫婦は手を横に振りながら微笑んでいた。
「気にせんでええんどっせ」
祖母の言葉を引きついで、祖父が話はじめた。
「石川五右衛門が釜茹の刑に遭うた時、子供が一人おって、その子供も同じ釜茹の刑を大閤から命じられたんやが、五右衛門は子供を頭の上に担いで、助けようとしたんや・・・」
そこで、老夫婦は号泣しはじめた。
『ひょっとしたら、藤堂家はその子供の血を引いてるんやわ・・・』
恵美子は、「石川」の表札の謎が解けたような気がした。
「あんたが察した通りや・・・藤堂家は石川五右衛門の子孫やいうわけや」
話が渦中に入った時、藤堂頼賢が戻ってきた。
恵美子は服部崇のことが気になっていたが、敢えて黙っていると、祖母の方から彼に様子を訊いてくれた。
「みなはんは、収まってくれはったんどすか?」
彼の否定的な様子から、祖父が口を開いた。
「わしが、出ていこか?」
「お爺ちゃんがわざわざ出んでも、親父が何とかするやろうけど、難儀してるわ・・・」
彼の言葉で、恵美子は自分の所為で偉い騒動になっていることを悟った。
日本という国は、骨の髄まで東西問題が鬱積した国だ。
東西問題は、白黒問題ではなく、白赤問題なのだ。
だから、平氏と源氏の問題になる。
平氏が西で白だ。
源氏が東で赤だ。
東山が平氏で、西の嵐山が源氏なのは、帝から見た方だからだ。
京都では、左と右が逆さまになっている。
左京区が右にあり、右京区が左にある。
すべては、帝から見た方だからだ。
天皇家にとっては、畢竟、平氏の方に味方しているわけである。
共に、桓武平氏と清和源氏という天皇家の落胤であっても、やはり、平氏の方が大事なのだ。
武家社会と貴族社会の確執は、天下取りの問題だけではなかったのである。
親政と幕政の問題ではなかった。
日本という国の黎明期からの大きな問題だったのである。
そんな大きな問題に紛糾するとは、恵美子は想像すらできなかった。
石川五右衛門はただの盗賊ではない。
義賊と言った方がいいだろう。
石川五右衛門はただの義賊ではない。
伊賀忍者の頭領、服部半蔵の祖先と言った方がいいだろう。
服部半蔵はただの忍者ではない。
太秦を拠点に全国にネットワークを張り巡らした渡来人の秦一族を祖先に持つ。
渡来人の秦一族は、中国をはじめて統一した秦の始皇帝を祖先とする。
藤堂家の祖先は、畢竟(つまるところ)、秦の始皇帝まで遡るわけで、日本の天皇家の比ではない。
況んや、尾張中村の百姓の出、豊臣秀吉など足下にも及ばない係累を持つ家柄なのである。
そんな石川五右衛門が伏見城を築城した豊臣秀吉に反逆したのは、それまで、帝の下世話をしていた伏見の住人を不可触民という、百姓よりも劣る最下層の人非人に秀吉がしてしまったからだ。
「士農工商」という階級制度を、日本ではじめて制定したのは徳川家康だが、その走りを付けたのが豊臣秀吉だったわけである。
「士農工商」を制定した徳川家康は、「士農工商」の下に穢多、非人という賎民を置き、被支配階級による支配階級への反逆を逸らそうとする政策を採った。
その元祖が、選りにも選って、百姓出身の豊臣秀吉だったとは、人間とは何処まで愚かなのだろうか。
石川五右衛門はそんな豊臣秀吉を許せなかった。
事ある毎に伏見城に忍び込み、高価な茶器などを盗み出しては他の大名に売り飛ばし、得た貨幣を伏見の人たちに分け与えていた。
石川五右衛門が義賊と呼ばれた所以だ。
秀吉は徹底した捜索を実施して、遂に、石川五右衛門を伏見城下で拿捕した。
伏見の住人を懐柔して、石川五右衛門を裏切らせたのである。
捕まった石川五右衛門は秀吉によって釜茹の刑を言い渡され、見せしめのため、その一子も同じ刑に処すという峻烈なものだった。
石川五右衛門は必死で自分の子供を守り抜いた。
罪の意識に苛まれた伏見の住人たちも、そんな石川五右衛門の気持ちに応え、子供を釜茹から救い出したのである。
救い出された子供は、秀吉の追求から身を隠すため、藤堂順春(よりはる)と改名され、以降、藤堂家は伏見の守り神として、人々から敬われるようになっていくのである。
藤堂頼賢の名が「よりかた」で呼ばれる所以がここから来ている。
藤堂伊賀で有名な伊賀焼きには、有名な茶器が多いが、寛永年間(1624〜1644)、つまり、三代将軍、徳川家光の治世下、伊勢津藩主、藤堂高次の時代に完成されたものであるが、服部半蔵はその時大活躍した伊賀忍者だ。
藤堂家が大名として勃興したのは、安土・桃山時代から江戸時代前期で、織田信長によって滅ぼされた浅井長政、豊臣秀吉の実弟、羽柴秀長らに仕え、秀吉に召された宇和島藩主、藤堂高虎である。
伊勢・伊賀32万石の大名だ。
藤堂頼賢が、「虎」と呼ばれている真の意味はここにあったのだ。

「藤堂はんが、『虎』と呼ばれたわけが、やっとわかりおした・・・・うちと藤堂はんとは細い一本の糸で繋がってたんどすなあ!」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
藤堂頼賢は黙っていた。