(その五)歴史の改竄

鹿ヶ谷哲夫から「日本誕生」の秘話を聞いた恵美子は、自分の使命の大きさに圧倒され、潰されそうな気がした。
「鴨川をどり」誕生の意図は、日本の都の奪回にあったことは十二分に理解はしていたが、今年の「鴨川をどり」は100年以上続けてきた中で、満を持したものであったらしい。
機が熟したと言った方が適切かもしれない。
輪違屋に戻った彼女のもとに、一通の手紙が届いたのは、「鴨川をどり」が始まる1日前のことだった。
差出人は榊原温泉で世話になった福沢綾子だった。
「畑恵美子様
前略
恵美子さん、榊原温泉病院での療養以来、お身体の調子は如何ですか。
わたしも温泉の女将としての勤めもやっと馴れてきました。
早速ですが、貴方が『鴨川踊り』で日本武尊(ヤマトタケルノミコト)を演じることになったと、ある人から聞きました。
その人のことは何れお話する機会があるかもしれませんが、今は秘しておきます。
日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は第十二代景行天皇の二男として生まれ、幼名は小碓(オウス)と言いました。
彼は些細な出来事で兄の大碓(オオウス)をねじり殺してしまいます。
“こんな乱暴な男を京(みやこ)に置いておくのは危険だ!”と思った父の景行天皇は、彼に九州の熊襲の征伐を命じます。
九州に渡った小碓(オウス)は女人に姿を変え、熊襲兄弟の新宮の宴の席にもぐり込み、隙をみて、熊襲兄弟を殺します。
死の間際に、弟の熊襲建(クマソタケル)は、“あなたのような建き人がいたとは・・・。これからは『倭建』と名乗るがよいでしょう”と言って死んでいきました。
『倭建』こそが、ヤマトタケルノミコトの語源です。
ところが、「日本書紀」ではヤマトタケルノミコトを「日本武尊」と書き変えられています・・・・・。
日本武尊(ヤマトタケルノミコト)という人物像は、今回の件でさぞかし勉強なされたことだと推察しますが、その中で、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の最期の件はご存知でしょうか。
日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は、伊吹山中の能煩野(のぼの)という地で息を引き取りました。
その辞世の歌があります。

嬢女の 床の辺に 我が置きし つるぎの太刀 その太刀はや

嬢女(おとめ)とは、熱田神宮の美夜受媛(みやずひめ)のことですが、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が草薙の剣を美夜受媛(みやずひめ)に与えて、丸腰で伊吹山中に入った所為で命を落としたのです。
以来、草薙の剣は熱田神宮で保管されるようになったというのが定説になっています。
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明日の開演に間に合う様に、草薙の剣をお届けします。
                        草々
                             福沢綾子」
綾子の手紙を読んだ恵美子は居ても立ってもおられなくなり、藤堂頼賢に連絡を取った。