(その四)再起のとき

近鉄京都駅に着いた恵美子は、目と鼻の先にある東寺に向かった。
駅から東寺の五重の塔が見える。
東寺は延暦15年(796年)創建と言われているから、平安京遷都の2年後のことだ。
空海22才の時である。
28年後の弘仁14年(823年)に嵯峨天皇から空海に下賜された寺として有名で、空海50才の時である。
空海が勉学のため唐に渡ったのは延暦23年(804年)であるが、当時の空海はまったく無名な一私僧に過ぎなかった。
一方、比叡山延暦寺を総本山とする天台宗の開祖・最澄は当時既に天皇の護寺僧である内供奉十禅師の一人に桓武天皇から任命されており、当時の仏教界で確固たる地位を築いていた。
最澄や三蔵法師の称号を唐で贈られた霊仙ら爽々たる重鎮たちと同格扱いを受けていた空海の処遇は謎に包まれている。
空海の本名、佐伯真魚(さえきまお)にその秘密は隠されている。
香川県善通寺(ぜんつうじ)市生れから、佐伯善通(さえきよしみち)とも言われている。
佐伯姓は服部姓と共に秦一族の末裔の一つであり、四国がまだ死国と呼ばれていた時代に秦一族が播州加古川から四国に移った一族だ。
佐伯氏と恵美子の畑氏はいわば親戚同士なのである。
1200年も都が置かれた京都の謎とも言えるし、鴨川踊りの中にその秘密が隠されているのである。
恵美子が京都に帰ってきた最大の理由は、5月に催される鴨川踊りに参加するためであった。
東寺で弘法大師にお参りした恵美子は、その足で輪違屋に向かった。
綾子と深い因縁がありそうな輪違屋の女将、増絵に榊原温泉での出来事の報告をする礼儀もあったが・・・。
久しぶりに輪違屋の前に立った恵美子は、芸妓になってまだ数年しか経っていないのに、すっかり花街の人間に染まっていることを痛感した。
『やっぱり、ここが一番落ち着くわ』
勤めを終わって東山の実家に足が向かうと何故か心が騒ぐのに、憂鬱な勤めに向かうため、朱雀野の輪違屋に足が向かうと何故か心が落ち着く。
何故か?
今まで一度もその疑問に対する回答を求めなかったが、今こうやって久しぶりに輪違屋の前に立つと、自然に湧いてくるような気がした。
人生に迷っている間は回答が得られないが、暫く醸成期間を置くと自然に回答が湧き上がってくる。
人生の妙がここにもある。
理屈でわかる年齢ではまだないが、芸妓という職業が可能にしてくれるのだ。
輪違屋に再び立った恵美子は、すっきりした想いになっていた。