(その四)不思議な体験

ふたりは再会を約束して、中川駅のプラットホームで別れた。
電車の席についた恵美子とプラットホームで立っている綾子が、電車の窓を隔てて向きあっている。
ガラス窓一つの所為で、お互いの声が聞こえない。
ガラス窓一つの所為で、お互いの匂いが匂えない。
ガラス窓一つの所為で、お互いの味が味わえない。
ガラス窓一つの所為で、お互いの肌が触れない。
ガラス窓で隔てられていても、お互いの姿だけが見える。
駅構内から発せられたブザーが鳴り終わると、電車が動き出した。
電車の席についた恵美子と、窓外のプラットホームに立っている綾子の相対世界が静止の世界から運動の世界へ変化をはじめた。
運動の世界に移動した恵美子にとっては、自分が静止していて、綾子が運動している。
静止の世界のままにいる綾子にとっては、自分が静止している、恵美子が運動している。
まさに相対世界だ。
相対世界では、自分が静止していて、他者が運動しているのだ。
相対世界では、自分が実在していて、他者は自分の不在概念、つまり、映像に過ぎないのだ。
自他の世界が相対世界である所以だ。
自分が唯一実在するもので、他者はすべて映像である所以だ。
50万KM離れている月は1.8秒前の映像である所以だ。
1億5000万KM離れている太陽は8分前の映像である所以だ。
ガラス窓一つ隔てて電車の席についている恵美子にとって、窓外のプラットホームに立っている綾子は1億分の1秒前の映像である所以だ。
窓外のプラットホームに立っている綾子にとって、ガラス窓一つ隔てて電車の席についている恵美子は1億分の1秒前の映像である所以だ。
だから、運動の世界に移動した恵美子にとっては、自分が静止していて、綾子が運動していると錯覚するのである。
だから、静止の世界のままにいる綾子にとっては、自分が静止している、恵美子が運動していると錯覚するのである。
榊原温泉での数ヶ月間の肉体と想いの浄化が、恵美子に大きな気づきを与えていたために起こった現象だった。
恵美子は不思議な体験をすると共に、綾子に会いにきて本当によかったと思った。