(その四)噂のふたり

「そろそろ京都に帰りますか?」
綾子は寂しそうに恵美子に言った。
「ええ、そうします」
「女将はんへの言付けおありどすか?」
普段なら月に一度は必ず輪違屋の女将、増絵に会いに行っている綾子であることを恵美子は承知していた。
しかし、自分が木戸屋に逗留しているこの数ヶ月間、綾子が榊原温泉から離れることがなかっただけに余計に恐縮する彼女は、増絵の話題を自分から切り出すことを決してしないでいたが、今回だけはそうはいかなかった。
「いえ、ありません」
「恵美子さんをこちらで預かってきたことが、女将さんへのメッセージになっていますから・・・」
「・・・・・・・・」
綾子の意味深な言葉に戸惑いを感じながらも、恵美子は敢えて深追いすることはしなかった。
綾子は中川駅まで送ってくれた。
「京都行きの特急が来るまで、ちょっと時間があるから、あそこに少し寄りましょう・・・」
恵美子が中川駅に着いて最初に訪れた立ち喰い蕎麦の店に、綾子は誘ったのである。
恵美子は初めて榊原温泉にやって来た時のことを思い出した。
輪違屋に初めてやって来た綾子と親しくなった恵美子は、綾子から榊原温泉に誘われた。
「一度榊原温泉においでになったら?その美しい肌に一段と磨きがかかるわよ・・・」
綾子の一言で恵美子はその気になった。
「近鉄京都駅から八木まで行って、八木で鳥羽行きに乗り換えて、中川駅で降りたら、駅の構内に立ち喰い蕎麦の店があるわ・・・、そこに私はいるから・・・」
その頃、綾子は中川駅構内の立ち喰い蕎麦の店で働いていた。
榊原温泉の事務をしながら、立ち喰い蕎麦の店でも働いていたのだ。
恵美子は綾子の事情の深さに気づかないわけではなかったが、敢えて問い質すことはしなかった。
舞妓という職業柄も加味していたが、恵美子の性格でもあった。
二十歳にも満たない普通なら女の子がする相手への配慮が、綾子の心に染みた。
「ああ、女将さん!」
「ああ、あなたは!」
立ち喰い蕎麦の店員の女が吃驚して叫んだ。
「京都行きの特急が来るまで、ここで休憩させてね」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
綾子の言葉に、その女は嬉しそうに相槌を打った。
『何かこの二人の間にも事情がありそうやわ」
恵美子は心の中で呟いた。