(その四)自然は偉大

温泉療法で肉体を浄化した恵美子は、想いをも浄化することができ、この世の中とは、真実を覆い隠し続けてきた実に薄汚い人間社会であることに気づいたのだ。
断崖絶壁の山の峰を、まるでスローモーションビデオを観ているかのように、見事に降りてくる野性の鹿を見た瞬間(とき)、野性、つまり、自然の偉大さを実感すると共に、人間、つまり、人工の卑小さを思い知らされた。
無限の青い空を、まるでスローモーションビデオを観ているかのように、舞っている野性の鳥を観た瞬間(とき)、野性、つまり、自然の偉大さを実感すると共に、人間、つまり、人工の卑小さを思い知らされた。
文明社会に住んでいる人間は、自然の偉力を忘れてしまったらしい。
文明社会に住んでいる人間は、自然の威力を忘れてしまったらしい。
自然の偉力の前には、人間の文明など一溜りもない。
自然の威力の前には、人間の文明など一溜りもない。
野生の鹿や鳥たちは、地震を敏感に察知して事なきを得る術を知っているが、文明の人間は地震を自然災害だと喚き散らす。
野生の鹿や鳥たちが24時間以上も前に地震が始まっていることを察知できているのに、東大地震科学研究所の頭の良い先生方は何も察知できていないから、人間社会だけが災害になるのだ。
軍事政権が支配している国でサイクロン(台風)がやってくるのを支配者が知っていても、国民には報せないでわが身だけを守る人間とは一体何者なのだ。
その結果、多くの国民が死ぬ。
自然はそんな人間を決して許さないだろう。
地球はそんな人間を決して許さないだろう。
榊原温泉でのこの数ヶ月間の生活は、恵美子の人生にとって大きな収穫であった。
“大きな収穫を得るためには、大きな犠牲を強いられる”
彼女は大きな犠牲を敢えて受け入れたことは確かであるが、大きな犠牲を埋め合わせても余りある大きな収穫を得たことによって、この真理を頭ではなく、身体に落とし込むことができたのである。
人生の本当の妙は、真理を知った時ではなく、真理を身体に落とし込めた瞬間(とき)にある。
過去・現在・未来という「時(とき)」は真理がその姿を現わす舞台(空間)の「時間」ではない。
『今、ここ』という「瞬間(とき)」が真理がその姿を現わす舞台(空間)の「時間」である。
恵美子の榊原温泉での数ヶ月間という「時間」は過去・現在・未来という「時(とき)」だが、彼女にとっては一瞬の出来事の感覚でしかなかった。
京都で悶々と過ごしている聡にとってのこの数ヶ月間という過去・現在・未来の「時(とき)」は長い「時間」であった。
そして、藤堂頼賢にとってのこの数ヶ月間は一体どんな過去・現在・未来という「時(とき)」であっただろうか。
恵美子は、自然の偉大さを実感しながら、京都に想いを馳せるのだった。