(その四)浄化した想い

榊原温泉を囲む山々から、透き通るような鶯の鳴き声の季節がやってきた。
朝の木洩れ日が枝葉を飛び交うオスの鶯を投影して、満開の桜の木と見事な共演をしていると思いきや、どのオスの求愛を受け入れるべきやと、メスの鶯が散りかけた桃の木の枝葉をいそいそと移り飛んでいる。
『ああ、もう春やわ!』
恵美子は「一志のななくりの湯」にすっかり馴染んでいた。
二十一歳というはち切れそうな肌でも、「ななくりの湯」に掛かると、生まれたての赤ん坊のようなすべすべした肌になり、はち切れそうな肌も形無しである。
「春若さん、体調の方はどう?」
綾子もすっかり安心した様子で、近頃では、木戸屋の若女将に専念しているようだ。
「へえ、もうすっかりようなって・・・」
『・・・・・・・・・・・・・・・・・』
「どうしはったんどすか?」
恵美子は綾子の気持ちを察したが、自分から話を切り出すことはしなかった。
「輪違屋の女将が、春若さんのことで気を揉んでいるようなの・・・」
増絵の影に倫子がいることは承知していたが、増絵と綾子の関係がわからない限り、それ以上深入りすることはできなかった。
「女将はんが気を揉んでいやはるって、どういう意味どすか?」
以前の恵美子なら、感情の線が既に切れていたが、温泉のお陰で喜怒哀楽のパイプが太いものになっていた。
動脈硬化を起こした感情線ならアセトアルデヒドが大量に分泌されて疾っくに破裂していたが、今の恵美子はさらさらしたβエンドルフィンという脳内モルヒネが滔々と流れ入り、起伏のなだらかな感情に浸っておられるのだ。
「春若さんは、ここへ来てからずいぶん変わったわ!」
綾子は増絵の話を引っ込めてしまった。
相手を変えようとすれば、先ず、自分が変わらなければならない。
凡夫はそれがわかっていない。
どんな悪意に満ちた人間でも、相手から胸襟を開いてきたら、自分も開かざるを得なくなる。
それが、人間の真の善意だ。
そのためには、浄化された意識が要る。
この数ヶ月の間に、恵美子の意識は浄化された想いになっていた。