(その四)別離との別れ

どうやら人間という生きものは、有機生命体においてセックスは基本中の基本行為であることを忘れてしまったらしい。
セックスによって生まれ、セックスを生き、セックスによって死んでゆくのが有機生命体であるのに、我々人間だけが、セックスを罪深き行為だと歪んだ捉え方をしてきた。
一体誰がそんな間違った捉え方を人間に教えたのだろう。
神が犯人であることは明白だ。
宗教が犯人であることは明白だ。
人間は独りで生まれ、独りで死んでゆくのに、独りで生きていることを忘れてしまっている。
差別・不条理・戦争が人間社会だけに存在するのは、独りで生きていることを忘却してしまったことに起因する。
人間だけが死を知り、死を恐れて生きている原因がこの忘却にある。
死を知ったことは、死を受け入れることに繋がるのが当然なのにである。
恐怖の源泉は無知にある。
恐怖からの解放は知ることによって為される。
知ることによって、恐怖は消滅する。
死を知ることによって、死の恐怖は消滅する。
ところが、人間は死を知ることによって、死を恐れるようになった。
そんな馬鹿な話はない。
何故そんな馬鹿な話になってしまったのだろうか。
独りで生まれて、独りで死んでゆくなら、独りで生きているのは当然なのに、独りで生きていると思っていないから、独りで死ぬのが怖いのだ。
自分以外のものは、それが人間であろうが、他の動物であろうが、他の植物であろうが、他のモノであろうが、すべて、自分の世界には存在しないものであることを解っていないのだ。
自分以外のものはすべて映像に過ぎないことを理解できれば、独りで生まれ、独りで生き、独りで死んでゆくことが理解できるのである。
恵美子にとって、藤堂頼賢といえども、単なる映像に過ぎないのだ。
藤堂頼賢にとって、自分もやはり、単なる映像に過ぎないのだ。
だが、映像といえども、自分が投影した映像だ。
投影するには光が要る。
その光を発するのは他でもない自分である。
映像の濃淡を決めるのは他でもない自分である。
男と女が惹かれ合うのは、投影する光の濃淡の問題なのである。
まさに、光が正物質のX粒子と反物質のX粒子の対消滅によって誕生する一現象なのだ。
恵美子という正物質と、藤堂頼賢という反物質の衝突によって、自らを犠牲にして子供を生む。
恵美子は対消滅を避けたのである。
何故なら、藤堂頼賢を失いたくなかったからだ。
別れたくないから男と女は結婚する。
だが、死によって必ず別れがやってくる。
別れたくなかったら結婚しないことだ。
別れたくなかったら別れることだ。
恵美子はそれを実践しただけのことである。