(その四)至福の境地

久しぶりの再会を、ふたりがはじめて出逢った三十三間堂で終えた恵美子の心は、絵も言われぬ不思議な充実感で満たされていた。
世間一般の常識では、別離であったかもしれないのに・・・。
ふたりの間の絆が、肉体的にも精神的にも切られたのに・・・。
しかも、肉体的絆を断ち切ったのは、他ならぬ自分であったのに・・・。
藤堂頼賢も充分理解していた。
自分がそのつもりでも、相手が理解していなければ、別離であったかもしれない。
相手がそのつもりでも、自分が理解していなければ、別離であったかもしれない。
世間で展開されているいわゆる別れ話は、悉く、この類である。
恋愛する二人なのに、想いは相克しているのである。
そんな二人は恋愛状態などでは決してない。
己一人の妄想に過ぎない。
『私は貴男を愛しています』
『私は貴女を愛しています』
別れ話が出た途端、憎しみに反転する。
己一人の妄想に過ぎないからだ。
『私は自分を愛しています』だけに過ぎなかっただけである。
二十歳過ぎの恵美子でも理解できていたのである。
二十歳過ぎの藤堂頼賢でも理解できていたのである。
だが、恵美子は別離したとは思っていなかった。
藤堂頼賢も別離したとは思っていなかった。
絵も言われぬ不思議な充実感で満たされていたのは、ふたりが愛憎を超えたからである。
絵も言われぬ不思議な充実感で満たされていたのは、ふたりが愛憎を理解したからである。
超えた人間は、全体感に戻るのだ。
理解した人間は、全体感に戻るのだ。
『うちの使命って何やろか?』
今まで一度も考えなかった想いで、恵美子は至福の境地に浸っていた。
『藤堂はんと一緒の人生を歩むことなんや!』
一緒の人生とは、物理的な一緒ではない。
一緒の人生とは、精神的な一緒でもない。
そんなものは、所詮、部分観の世界の話である。
大事なのは、全体感の世界の話なのだ。
好きだと思った矢先に、嫌いな想いが去来する。
そんな繰り返しを懲りずに人間は一生続けている。
尊敬していると思った矢先に、造反する想いが去来する。
そんな繰り返しを懲りずに人間は一生続けている。
戦争を忌避して、平和を祈願しながら、人類は戦争を懲りずに続けている。
一体人類とは錯覚の化け物なのか。
一体人類とは誤解の化け物なのか。
宗教は錯覚の極め付きだ。
宗教は誤解の極め付きだ。
人類も含めてすべての生きものは、セックスによって誕生し、セックスをして生き、セックスを終えて死ぬ。
誕生・生・死とセックスは切っても切り離せない関係であるのに、宗教はセックスを罪と断罪し、人類は宗教の教えを信じ込んで生きてきた。
誕生・生・死という円回帰運動が自己完結する瞬間(とき)自己消滅するのが、対消滅現象である。
正物質と反物質が衝突すると、正物質も反物質も共に消滅する。
対消滅現象だ。
プラスとマイナスが衝突すると、プラスもマイナスも共に消滅する。
オスとメスが衝突(セックス)すると、オスもメスも共に消滅する。
対消滅(セックス)とは、運動宇宙にとって切ろうとしても切り離せない法則である。
ところが、
宗教はセックスを罪と断罪し、人類は宗教の教えを信じ込んで生きてきた。
その結果、自己矛盾の分裂症だ。
セックスに憧れながら忌避する人間社会から差別・不条理・戦争がなくなるのは不可能だろう。