(その四)悟りの第四歩

高齢化と少子化は、老いぼれと餓鬼(ガキ)による反社会勢力を構築する。
極端に多い数、極端に少ない数を構成する種は必ず堕落する。
適正数が宇宙の法則なのだ。
畢竟、有機生命体が存在する地球、つまり、自然では適正数が掟なのだ。
不増不減が絶対的な掟なのだ。
増え過ぎた高齢者は老いぼれに過ぎない。
減り過ぎた子供は餓鬼(ガキ)に過ぎない。
老いぼれや餓鬼(ガキ)と言われたくなかったら、自分たちの力で適正数に戻すことだ。
団塊の世代が、高齢化社会と少子化社会を生み出したと言っても過言ではないだろう。
団塊の世代の人生は日本の戦後史と共にはじまるため、いろいろな戦後日本の出来事とオーバーラップする。
昭和40年代前半における大学生を中心にした学生運動に団塊の世代が大きく関与した事実は否めないが、戦後の政治運動・社会運動のきっかけを築き上げたのは戦中派を中心とする前世代であり、団塊の世代の運動は、そうした先代の作った枠組みに乗っかっただけである。
当時の大学進学率は10%程度で、若者の大多数は高卒・中卒の労働者だった。
さらに、当時の大学生の大半は政治に無関心であり、学生運動に参加した若者の数は圧倒的に少なかったのであるが、団塊の世代が学生運動の先駆けになっていると錯覚している連中がいまだに多くいる。
一部の大学生が新左翼の影響を受け、大学を封鎖するなどの学生運動がエスカレート、「全共闘世代」と言われるがそもそも大学進学率が低かったため学生運動に携わったのはほんのごく一部であり、関わった連中も卒業とともに保守化した、つまり、変節した姑息な輩だ。
歪んだ世代である彼らが産み落とした世代が、藤堂頼賢や聡たちの世代である。
高齢化と少子化は表裏一体の一枚のコインなのである。
コインが本物の黄金か、偽物のメッキなのか。
それは老いぼれと餓鬼(ガキ)が鍵を握っている。
恵美子と藤堂頼賢は少なくとも、餓鬼(ガキ)から抜け出した。
鹿ヶ谷哲夫も団塊の世代であるが、彼がふたりに話したことがあることを、恵美子は思い出した。
「われわれ団塊の世代は膨大な人口のため、幼い頃から学校は一学年2桁のクラス数であり、教室は50〜60人学級のすし詰め状態で教室不足は常態化していた。
好むと好まざるにかかわらず学校を主な舞台として競争が繰り広げられたが、団塊の世代の受験事情と少子化の進む現代の受験事情について、『団塊の世代は受験戦争が激しかった』と評する人もいるが必ずしも適切な評価とはいえない。
団塊の世代は人口が多いが高校卒業時の大学進学率は低かった。
一方、現代は学生数の割に大学進学率は高いため、競争の激しさを単純比較することはできない。
当時の国公立大学の授業料は月額が1、000円で、インフレなどの物価を考慮しても現在の1万円ぐらいの感覚だった。
有名私立大を除いては、概ね国公立大学の競争率が高く、経済的に貧しい学生は地元の国公立大学進学を望む傾向であった。
地方農村の中学校卒の若者は、高度経済成長後期であり、働き口が豊富だった東京や大阪などの大都市へ集団就職して、彼らは「金の卵」と呼ばれ、工場や商店などで大勢雇われ、日本経済の底を支えた。
青年期、高校から大学へ進学して都市部に集まった若者たちは既存社会への改革心に燃え、その強いハングリー精神と自己主張の強さから、いわゆる学生運動と呼ばれた大学改革やベトナム戦争反対の反体制運動に身を投じた。
一部の青年らは全共闘運動などで政府や既成秩序に反発し過激な活動を行ったが、1969年に東大紛争が敗北に終わり、70年安保闘争も不調に終わると、多くの若者が運動から離れていき、追い込まれた一部の運動家の暴力行為はエスカレートしていったのだ。
浅間山荘事件や党派の分裂による内ゲバの横行などで反体制組織に対する世間の目が冷たくなると、急速に『しらけ』が進み、1970年代半ばまでにほとんどの若者が政治活動から距離を置くようになった。
文化的側面から見ればファッションが浸透し始めた世代であり、男性はジーンズ、女性はミニスカートを好んで装い、レジャーやドライブを好むなど、そのスタイルは現代の若者文化の基盤を形成したのである。
高度経済成長をなしとげた日本で最初に青年期を過ごした世代として、それまで絶対的なものとして意識されていた欧米と日本の東洋文化の対立を相対化し、両方楽しんでしまう多文化世代でもあった。
彼らが親元から独立して家庭を持つようになると、著しい住宅不足となり、大都市の近郊には数多くの核家族向けの近代的な団地が造成された。
大手企業は福利厚生として集合住宅タイプの社宅を構え、その周辺に生活物資を売る商店が集まり、衛星都市と呼ばれる中都市ができたわけだ。
大都市を取り巻く都市圏は大きく広がり、それに伴う通勤通学のための交通網の整備が急がれ、鉄道の輸送力増強や新線建設、道路の新設や拡張が行われた。
いわゆる、都市膨張の時代だ。
1986年〜1991年のバブル景気の時代には彼らは40歳前後の働き盛りとして社会の中核を担い、企業戦士として過労死した者も多くいる。
1990年代に入って、バブル崩壊後の不景気が続くと、団塊の世代は壮年期を迎える。
彼らの所属する日本型年功序列制度に基づく高賃金は既得権益化し、日本企業の収益性が低い要因の一つとなったといわれ、また、その高い労務負担が、1990年代から2000年代前半の若年層の大規模な就職難の原因ともなった。
高度経済成長を支えた世代として評される場合が多いが、この世代が就職したのは中卒で1962〜1964年、高卒で1965〜1967年、大卒で1969年以降で、中学校を卒業した人々が労働力となった時代は高度経済成長の後半であるが、大卒の人々はすでに高度経済成長末期であり、この世代が高度経済成長を支えたとする見方は間違いだ。
この世代が主軸となって支えた経済成長は30代で経験した世界の機関車の時代と対米攻勢の時代、さらに40代始めのバブル景気ということになるだろう。
そして、団塊の世代が一斉に定年退職をする時期に入って、年金制度をはじめとして、社会に大きな影響をもたらすことが予想される。
一斉大量退職によるベテラン職員不足を回避し、技能継承のため、定年延長、再雇用等で乗り切ろうとする企業がある一方、彼らの蓄えた技術や能力、人脈を自社で生かすべく、団塊の世代の人材を獲得しようとする企業も現れている。
彼らが及ぼす多大な影響は『2007年問題』と呼ばれている。
彼らが長年にわたり蓄積してきた知識や技能をいかに後進に伝承するかが企業内部にとどまらず、社会全体の課題となっていくだろう。
ところが、彼らが社会人として組織で生き残るために、自身の経験やノウハウを自分の中で「閉じ込める」方法を選んできたことも事実であり、経験の伝承を実現することは決して容易ではない。
このままでは、組織として知識や技術の伝承を進めさせるための配慮を検討しなければ、彼らの莫大な財産が生かされないことになってしまう事態に陥ることになる」
藤堂頼賢の想いが過熱していくのを、恵美子は感じていた。