(その四)悟りの第二歩

勇気は無条件のものだ。
度胸は条件付きのものだ。
勇気を持つメスは無条件の生きものだ。
度胸を持つオスは条件付きの生きものだ。
メスが生きものの実在であり、オスがメスという実在するものの不在概念に過ぎない所以がここにある。
度胸度は、「考える」という臆病さのバロメーターでしか計れない。
つまり、度胸と臆病は一枚のコインの裏表の現象に過ぎない。
暴力団といった反社会勢力と一般大衆といった正社会勢力とは、度胸と臆病というコインの裏表現象に過ぎない。
暴力団といった反社会勢力が裏社会の人間と言われる所以がここにあるが、本質的には、一般大衆と何ら変わりはない。
一般大衆がひとつ間違えば暴力団になるのだ。
現代社会は、まさにその表象だ。
「モンスターペアレント」と揶揄されている若い母親連中の精神構造は、まさしく暴力団と変わりがない。
メスである女性にまで反社会勢力的人間が出現しだしたのは、「考える」力しかない人間ばかりになったからだ。
清水の舞台から飛び下りる勇気のない、考えることしかできない臆病な人間ばかりのモノクロ生きものに成り下がったからである。
今こそ、人間社会に勇気が求められる瞬間(とき)である。
度胸と臆病が絡み合う人間社会は、自然にとっては百害あって一利もない。
度胸と臆病が絡み合う人間社会は、地球にとっては百害あって一利もない。
度胸と臆病が絡み合う人間社会は、宇宙にとっては百害あって一利もない。
恵美子は多くのことを悟った。
藤堂頼賢と兄の聡は、まさに、勇気の表象と度胸の飾りの違いだということがわかった。
勇気は絶対的なものだが、度胸は臆病と背中合わせの相対的なものに過ぎない。
これまでの人間社会は、勇気と度胸を同じものだと捉えてきた。
そして、度胸と臆病を二律背反するものと捉えてきた。
人間という生きものは常に二重の錯覚をするものらしい。
敢えてそうしたのか、気づかずにそうしたのか。
問題の核心はこの点にあるのだが、二重の錯覚が問題の核心を曖昧模糊にしている。
二重が鍵だ。
人間社会は、先ず一重の錯覚から脱却することが肝要だ。
自覚症状のない音痴が音痴を治せるわけがない。
先ず、音痴であることを自覚することが肝要だ。
人間社会は、先ず自分たちが音痴であることを自覚することだ。
障害者と健常者と区分けしている間は無理だ。
人間はみんな五感障害者なのだ。
人間は映像痴なのだ。
人間は音痴なのだ。
人間は臭痴なのだ。
人間は味痴なのだ。
人間は触痴なのだ。
恵美子は榊原温泉病院での断食治療で、人間が五感障害者であることに気づいたのである。