(その四)走性

二人がはじめて出逢った三十三間堂の千手観音像は千体(実際には千と一つ)あるが、すべて表情が違っている。
藤堂頼賢を待っている間、恵美子はひとつ一つの千手観音像の表情を確認していった。
確かに微妙な表情の違いが、それぞれにある。
本尊の左右の段違いの仏壇に各十段、五十列、左右それぞれ計五百体の千手観音像が並び、本尊の背後に一体、計千と一つが並んでいる。
観音像の高さは五尺五寸だ。
平安時代のものも百二十四体あるが、大半は鎌倉時代のものだから、鎌倉時代の日本人の平均身長が五尺五寸であった証左だ。
しかも、観音像はすべて男性である。
鎌倉時代に五尺五寸の女性がいたら、まるで化け物だ。
『やっぱり、鹿ヶ谷はんが言うてはったけど、人間社会はずっと男性社会やったんやわ・・・』
『それが、差別や戦争いうような不条理が罷り通るけったいな世の中の原因やったんや・・・』
『こんな男はんのいろんな表情見ててもしようないわ・・・』
『そやけど、ようこれだけいろんな表情があるもんやわ・・・』
『男はんて、よっぽどあれこれ想うけったいな生きものなんやわ・・・』
いろいろ考えを巡らせて千体ある千手観音像を観察していると、楽しくもあり時間があっという間に過ぎてしまった。
「何がそんなに嬉しいんや?」
背中の方から懐かしい声が聞こえた。
恵美子は振り返らなかった。
涙が一気に溢れ出したからである。
真実の涙は制御などできない。
嘘発見の器械など現代人に掛かったら赤子のような他愛のない代物だ。
自分の心に対していとも簡単に嘘をつくことができるのが現代人の特徴である。
お涙頂戴の演技など御茶の子さいさいだ。
えっさっさのさいさいだ。
浪花漫才師上がりのタレントが女性のマネージャーに暴行を働いた事件が思い出される。
テレビカメラの前で号泣して、視聴者に許しを乞うた。
現代社会では、男でも涙を意識的に出せるらしい。
真実の涙は絶対に制御できない。
恵美子が振り返らなかったのは、藤堂頼賢に自分の涙を見せたくなかったからではない。
真実の涙であることを自覚したかったからである。
人間は概ね視覚動物と言われているが、中には聴覚動物の人間もいる。
どんな生きものでも自分の得意な感覚器官を必ず持つ。
嗅覚動物である犬が典型だ。
記憶の方法でも、視覚動物の人間は書いて憶えようとするが、聴覚動物の人間なら暗誦して憶えようとする。
自分の得意な器官を自覚していない人間は、頭脳の悪い人間だと誤解される。
人間の頭脳の程度なんて高が知れている。
試験で抜群の成績を上げられる人間が頭脳が優れているのではない。
彼らは記憶の要領を知っているだけだ。
つまり、自分が視覚動物なのか、聴覚動物なのかを知っているだけで、それに適した記憶方法を採っているから、試験に優秀な結果を出せるのであって、決して、抜群の頭脳を持っているのではない。
恵美子は聴覚動物だったのだ。
藤堂頼賢の姿を見るよりも、藤堂頼賢の声を聞いて感激したのである。
だから、彼女は敢えて振り向かなかったのだが、逆に言えば、振り向くのが怖かったのかもしれない。
その瞬間(とき)、恵美子の肩に手の温もりを感じた。