(その四)外れた箍

「まあ、春若はん!」
増絵は多くを語らず、恵美子の肢体を舐めるように見て言った。
「えろう長い間勝手してすんまへん!」
恵美子も多くを語らず、増絵の視線を押し返すような眼差しで言った。
藤堂頼賢に連れられて行った鹿ヶ谷邸で鹿ヶ谷哲夫の娘、澄江に出逢ったことで、思い切った決意を増絵に披瀝して榊原温泉に旅立った恵美子だが、詳細は決して言わなかった。
着物で覆われていても恵美子の肢体が大きく変わっていたのは一目瞭然だった。
すべてを察したのか、増絵は話題を逸らした。
「すぐのお勤めはまだ無理どすな?」
「ここで、養生しおすか?」
「それとも、・・・・・?」
増絵の脳裏に母の倫子の姿が浮かんでいることはわかっている。
「一度・・・・・・・・・」
「わかりおした!」
女将の部屋を辞した恵美子は控え部屋にある電話に向かって突進した。
『やっと藤堂はんの声を聞けるわ!』
電話をするだけなら、榊原温泉での数ヶ月の間でもできたはずだし、京都駅の公衆電話でもできたはずだが、筋道と言うものが世の中にはある。
恵美子は筋道を守ったのだ。
日本の伝統ある慣習の一番が筋道を守ることだった。
否、人間社会の良き風習の一番が筋道を守ることだった。
仁義は渡世人だけの専売特許ではない。
自然社会こそ仁義なき弱肉強食の世界だ。
自然淘汰の世界だ。
人類が良き知性を得たとするなら、それは、仁義ある社会に収斂するだろう。
だが、知性にも良き知性と悪しき知性があったのだ。
仁義なき知性の世界は悪しき知性の為せる業である。
自然社会は仁義なき無知の世界だから、自然淘汰が許される。
人間社会は仁義ある知性の世界だから、弱肉強食が許されない。
人間社会の良き風習の一番が筋道を守ることである所以だ。
人間社会の良き風習の一番が仁義を守ることである所以だ。
この数ヶ月間、藤堂頼賢の声を聞きたくない日など一日もなかった恵美子だが、春若としての筋道がそれを許さなかった。
増絵に礼を尽くした春若は、自ら嵌めていた箍を外して、一人の普通の女に戻ったのだ。
受話器の向こうで鳴る呼び鈴の音だけで、涙が止め処なく流れるのだった。
抑圧してきた藤堂頼賢に対する想いが一気に吹き出したのである。