(その四)絡む糸

福沢綾子ははじめて輪違屋を訪れて以来、月に一度は必ず増絵に会いにやってきた。
綾子がやってくると、恵美子はよき話し相手になっていったが、女将の増絵と綾子の関係を詮索することは一切しなかった。
それが花街の掟であるからだ。
「恵美子さんは、何才の頃から、このお仕事をされているんですか?」
水商売の遍歴を質問するのは花街ではご法度なのだが、綾子はお構いなしに恵美子に問い掛けてきた。
綾子は恵美子より二周り上の未年だったから、すでに四十路を過ぎていたが、なぜか恵美子を友達のように思っていた節がある。
二十歳にもならない恵美子が、自分の身の上話を決して聞こうとしない大人の思いやりに好感を持ったのか、それとも、心の傷を共有している者同士が持つ独特の波動が共鳴したのか、解答はお互い晩年になるまで持ち越されることになる。
榊原温泉病院の玄関に通じる道を横目にしながら、タクシーは温泉街へと入っていった。
木戸屋は榊原温泉の最奥部にひっそりと佇んでいる和風建築の旅館で、恵美子は以前一度泊まったことがある。
タクシーが木戸屋に近づいてくると、沈黙を保っていた運転手が漸く口を開いた。
「お客さんは、榊原温泉ははじめてですか?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
相手のことを常に思い遣る性格の恵美子だが、さすがに、応える気になれなかった。
デリカシーのない人間ほど性質の悪い者はいない。
品がないのだ。
品のある者は、女の場合は優美さを持ち、男の場合は鋭敏であって、「上品」と尊称される。
品のない者は、女の場合はきめが粗く、男の場合は鈍感であって、「下品」と侮蔑される。
木戸屋の玄関先に車が停まっても、運転手は無言でメーターを上げるだけだった。
メーターを見た恵美子は運転手に五千円札を手渡して、「お釣はけっこうどす・・・」と小さな声で言って、さっさと玄関の中に入っていった。
人間の出会いは、時には奇縁なものもあるが、殆どが、無味乾燥なものだ。
特に現代社会では余計そうだ。
人間のロボット化が亢進すればするほど、無味乾燥な人間関係になって、本来有機生命体の人間がまるで、鉱物のような無機物になってしまう。
植物や動物は鉱物と違って有機物であり、有機物の中で一番進化している筈の人間が無機化してしまうと、地球上に存在する全物質、つまり、鉱物・植物・動物、いわゆる、三態は円回帰運動の最終段階に入り、地球上から有機生命体が消滅してしまい、有機星である地球が他の惑星と同じ無機星になる。
現代人間社会では高齢化と少子化が相俟って、地球が無機星になってしまう危機が迫っているのである。
「いらっしゃいませ!」
恵美子が玄関口に足を踏み入れると、女中が一人、奥から出てきた。
「京都の春若どすが、女将はんおいでやすか?」
「まあ、春若さん!いらっしゃい!」
玄関先の恵美子の声が奥まで聞こえたのか、綾子が飛んで出てきたが、驚いた様子はない。
中川駅の立ち喰い蕎麦の店から連絡が入っているはずと予想していた恵美子も、綾子の態度に合点していた。
「今回は長泊するのでしょうね?」
「へえ、できたらそうお願いしとうおす」
暫く解けていた二本の糸が再び絡む気配になってきた。