(その三)象徴的な示唆

今まで鹿ヶ谷哲夫の話に聞き入るだけで、沈黙を保ってきた藤堂頼賢が突如口を開いた。
「わたしが畑恵美子という女性を愛しているというのも、所詮ニセモノの自分なのでしょうか?」
『話が他人事だと冷静に判断できるのに、自分事になると冷静な判断がまったくできないのは何故だろうか・・・』
恵美子の胸の中で葛藤が渦巻きはじめた。
藤堂頼賢の口から発せられた「愛している」という言葉には「喜び」の感情が湧く自分がいて、愛する自分が「ニセモノの自分」という言葉には「怒り」の感情が込み上げてくる自分がいる。
二人の自分が胸の中で相克して、摩擦熱で炎上しそうになる。
自我が炎上してはじめてホンモノの自分がその姿を現わす。
鹿ヶ谷哲夫は恵美子に視線を向けてから暫く沈思黙考していたが、漸く目を開けて静かな口調で喋りはじめた。
「三島由起夫が描いた『金閣寺』には、そんな複数の自分が別人として登場してくる。炎上した金閣寺を夕佳亭から眺めていた放火犯、林養賢は吃音というハンディキャップを左斜に構え、そんな林養賢を軽蔑しながら、弄んで用済みの女を彼に与えていた柏木は内反足というハンディキャップを右斜に構える。
二人の障害者が、主人公の胸の中で相克した結果、摩擦熱で物質の美の頂点の金閣寺を餌食にする。
それはまるで、三島由起夫自身であり、更に、二人の障害者を自分事のように眺めていた挙げ句、自殺する鶴川に自己をラップさせ、最後に割腹自殺したのは、まさしく、自己客観視のアンチテーゼとしての自己主観視という完璧なまでの錯覚であった。
三島由起夫が自己の錯覚を理解していたかどうかは今ではわからないが、錯覚であっても、完璧な錯覚であったことは確かだ。
三島由起夫は、中途半端な覚醒よりも、完璧な錯覚の方を選択したのだろう。それは、一般凡夫の中途半端な錯覚に対する強烈な皮肉だったのだろう。
その最後の仕上げが自衛隊での割腹自殺だったわけだ」
恵美子は、藤堂頼賢の表情が一変したことは察知したが、表情の内側で渦巻く想いを見抜くことはできなかった。
鹿ヶ谷哲夫の象徴的な言葉の真意を汲み取ることができない限り、藤堂頼賢の想いを理解できるべくもないのは当然である。
鹿ヶ谷哲夫の象徴的な言葉が更に続いた。
「三島由紀夫は深淵な思索の中で、日本人の中途半端な錯覚の正体に気がついたのだろう。彼の兄弟子であった川端康成も中途半端な錯覚をしている人間の一人であることを、『金閣寺』がノーベル文学賞の有力候補に上げられた時に知ったのだ。弟弟子の三島由紀夫に激しく嫉妬する川端康成に日本人の原風景を垣間見たのだ。明治維新以後の日本はまるで外国のような国になってしまった、その原因を知ってしまったのだろう」
藤堂頼賢は真っ青な顔をして、鹿ヶ谷哲夫の象徴的な言葉に聞き入っていた。