(その三)錯覚生きもの

人間社会だけにある差別は錯覚が原因であると鹿ヶ谷哲夫は断定する。
錯覚とは、事実・真実・真理を歪曲して捉える一種の知覚障害であり、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚という所謂五感の機能障害である。
自然の中で生きているものは、人間の数百倍の五感能力を有していて、彼らが潜在能力を100%発揮している根拠は、五感能力をフルに発揮していることに他ならない。
人間は潜在能力の20%程度しか発揮できていない理由は、脳の稼動率と生理学者は言うが、実のところは、五感能力の発揮度の低さにあり、その根源は錯覚の所為なのである。
錯覚は知性の罪的側面だと鹿ヶ谷哲夫は言う。
知性を持った万物の霊長だと自負してきた人類は、地上最強の生きものとして君臨してきたが、その反対給付として錯覚生きものに成り下がってしまったのである。
錯覚が齎した最大の産物が、悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖の人生だ。
知性を有する故の、悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖の人生なのだ。
しかし、知性には功的側面もある。
地上最弱の生きものが地上最強の生きものになれたのは知性のお陰であるし、文明社会を構築できたのも知性の賜物だ。
功罪両面とは二面性を持つことであり、二面性を持つ世界を「二元論の世界」と言い、人間社会はまさしく「二元論の世界」である。
「二元論の世界」とは、「一元論の世界」と「三元論の世界」に挟まれた、所謂「過程の世界」、言い換えれば、「通過点」に過ぎない。
「通過点」は点の積み重ねだが、恰も、線のように見える、つまり、映像だ。
「二元論の世界」は所詮、「通過点」の映像の世界であるからして、必ず「三元論の世界」に辿り着く。
始点が動きはじめて円運動をすると必ず終点に戻るが、終点は始点と同じ場所であり、円は映像に過ぎない。
円運動の正体がここにある。
人間が有する知性に両面性があるということは、この知性は「通過点」に過ぎず、やがて、終点に辿り着くことになる。
人間が有している知性が未熟な知性であり、やがて、終点である成熟した知性に辿り付く宿命を背負っている。
成熟した知性に辿り着けば、人間は錯覚生きものでなくなる。
悟りとは錯覚から脱却することに他ならないと、鹿ヶ谷哲夫は断定する。
古代、中世、近代、そして、現代と続いてきた文明社会は錯覚社会であったわけだ。
文明が進めば進むほど錯覚は酷くなる。
現代社会人の錯覚は極みに来てしまっている、と鹿ヶ谷哲夫は断定する。
「伏見の光と陰はまさしく錯覚の極みが織り成す映像だ」
「映像をどうこうしようと思っても無駄な労力に過ぎない」
鹿ヶ谷哲夫は藤堂頼賢を諭している、と恵美子は直感した。
「仇撃ちが新たな仇撃ちを呼び終わりのないイタチごっこになるように、革命は新たな革命を呼び、粛清は新たな粛清を呼ぶ。個人の目覚め・気づきの連鎖反応しか道はない」
「組織の時代はもはや終わった。これからは個人の時代だ」
「国家のない社会、社会のない社会、会社のない社会、家族のない社会が、個人の時代の社会だ」
鹿ヶ谷哲夫の圧倒的な話に恵美子は度肝を抜かれ、藤堂頼賢の子供を孕んでいる身を忘れてしまうのだった。