(その三)因縁の女

福沢綾子が京都にはじめてやって来たのは、年の瀬も迫った師走の日曜日だった。
輪違屋の女将、増絵を訪ねて三重からやって来たのである。
「ごめんください!」
「へい!どちらさんどす?」
たまたま恵美子が玄関に出た。
「榊原温泉病院の福沢と申しますが・・・、女将さん、いらっしゃいますか?」
増絵は、来年5月の「鴨川踊り」の打ち合わせのため、御池通りの京都市役所に出かけていて留守にしていた。
「女将さんは、朝から出かけておいでやす・・・すんまへん」
「・・・すんまへん」
東京で生まれて育った綾子にとって印象的な言葉だった。
「女将は、朝から出かけていて留守です」
標準語、つまり、東京弁では、実に突慳貪な言葉になる。
関西弁、特に、京都弁になると、実に柔和な言葉になり、而も、最後に「・・・すんまへん」で締める。
これでは喧嘩にならない。
綾子が京都を気に入ってしまったきっかけは京都弁であり、最初に京都弁を聞いたのが恵美子だった。
お互いに因縁の女になっていくのであるが、その橋渡し役をしたのが、標準語としての日本語の変遷であった。
今では、東京弁が標準語になっているが、江戸時代までは京都弁が標準語だった。
江戸時代には東京弁ではなく江戸っ子弁だった。
日本の標準語は、江戸時代までは京都を中心にした上方弁、つまり関西弁であった。
江戸に幕府があって、政治の中心は江戸であっても、やはり一千年続いた平安文化の中心である京都弁をベースにした関西弁が、江戸時代末期まで標準語の位置を占めていたのである。
明治に入って、首都が江戸に移され東京になってから、東京弁が関西弁にとって替わって標準語の位置を占めていくが、東京弁というのも複雑に入り組んだ言葉で、江戸時代まで続いたいわゆる江戸っ子弁を指すのではない。
東京には、今でも山の手という言葉が厳然と残っている。
明治の初期から中期にかけて、山の手地域と下町地域とに大きく分かれた。
明治維新による廃藩置県と四民平等で、江戸の人口は幕末から明治初期にかけて激減した。
幕末期に約100万人いた江戸の人口は、明治6年には約60万人に減った。
以降、徐々に復活して、明治11年、約80万人、明治21年、約130万人、明治31年、約140万人、明治41年、約160万人、明治44年、約190万人、そして、大正5年、約300万人、大正10年、約350万人、大正14年、約410万人、昭和5年、約500万人、昭和17年、約780万人と飛躍的に伸びていった。
江戸末期に住んでいた100万人の江戸っ子が自然増加だけでは、これだけの人口にはなり得ない。
地方からの流入者がほとんどであり、彼らこそが山の手の住人になったのである。
彼らは江戸っ子弁など使わない。
江戸っ子弁を使うのは下町の人たちだ。
政府から役人に任ぜられた長州を主にした若い官吏が山の手に住んでいた。
東京弁発祥の地は山の手であり、発生源は長州人たちの言葉だ。
丁寧語の代表格である「です」「ます」は、今では標準語の典型とされているが、もともと上品な人たちがしゃべる言葉ではなかった。
当時の若い役人たちが、東京の女郎街で使われていた「でげす」で憶えたのを「です」として使ったのが最初だ。
現代日本の標準語と言えば東京弁だと勘違いされているが、もともとは地方、特に長州弁が相当入っており、それが江戸っ子弁と混ざり合ってできたのが標準語なのである。
現代日本語の歴史は、中国から漢字が導入された6世紀―7世紀から始まった。
約千五百年の歴史がある現代日本語で標準語とされているのは、たかだか明治以降、特に、明治20年以降で100年余りの歴史しかない。
その前までの千数百年は、上方言葉が標準語であったということが、日本人の遺伝子に深く刻み込まれているのだ。