(その三)愛の本質

「大事なのは、そのお子を女が産んで育てる気持ちがあるかどうかだけで・・・男の気持ちなんか関係おまへん!」
「澄江はんは、お腹のお子を育てる気あらへんかったんどすか??」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
暫しの間の沈黙を自ら打ち破って、澄江は話はじめた。
「うちは、博はんが好きなんどす!
博はんの子供が欲しいんとちがうんどす!」
単純な表現だが、噛めば噛むほど含蓄がある。
「女は好きな男はんのお子を産みたがるてよう言わはるけど、うちはそうは思わへんかった・・・・そやかて、好きで結婚した二人の間に赤ちゃんが産まれた後は、子育てや生活に追われて、二人の間の感情はどんどん冷めていく夫婦がほとんどやおへんか?」
結婚生活を経験していない恵美子には、澄江の話は実感が湧かなかったが、世間ではそんな夫婦が圧倒的に多いことも確かだと思った。
現に、恵美子の両親も、その例から決して洩れない。
倫子と正三の恋愛は相当波乱に満ちたものであることは、その馴れ初めから考えても想像に難くないが、今では世間並みの夫婦に成り下がっている。
恋愛と結婚とは違うというだけでは済まない。
恋愛と結婚は二律背反するものなのだ。
ところが、男と女は、恋愛が結婚に繋がるものだと信じている。
ところが、男と女は、恋愛が子供を産むことに繋がるものだと信じている。
「オス社会」が捏造した、まったく馬鹿げた錯覚だ。
恋愛を続けたいなら、結婚に繋げたら絶対に駄目である。
況してや、恋愛を続けたいなら、子供を産んだら絶対に駄目である。
結婚と子供を産むことは、恋愛に皹を入れることは火を見るよりも明らかである。
一体いつの頃から、こんな馬鹿げた錯覚が罷り通るようになったのだろうか。
子供を産むのは、子孫保存本能欲が為せる業である。
それ以外の何の動機も目的もない。
況や、恋愛感情など、「考える力」を得た人間社会だけにある、一種の癖、習慣のようなものだ。
自然社会に愛など存在しない。
愛とは「考え」という概念に過ぎない。
いわば、エゴが愛を育むのだ。
子孫保存本能欲を満たす子供を産む行為は、愛を阻害する行為だ。
愛を育む行為は、子供を産む子孫保存本能欲を阻害する行為だ。
「愛」とはエゴが生み出した最大の産物である。
二人の「愛」というエゴが正面から衝突した瞬間(とき)、奇跡が起こる。
二人のエゴが対消滅して、エゴを超えた一つの意識となる。
そこには、恋も愛もない。
ただ、二つの物体が一体化した意識だけが残る。
そして、男と女の究極の姿が現れる。
澄江が父、哲夫から学んだことだ。
恵美子は、澄江の気持ちが漠然としたものであるがわかったような気が、その瞬間(とき)した。
「澄江はんは、その男はんだけとの人生を生きたかったんどすな・・・」
突然、瞼に浮かんできた藤堂頼賢の姿を思い出しながら、恵美子は納得するのだった。
『うちも、藤堂はんと二人きりで、誰にも邪魔されない人生を生きたいわ!・・・
子供も邪魔以外なんでもないわ!』
『ほんまや!』
『これが、ほんまの話やわ!』
「・・・・・・・・・・・・」
受話器の向こう側から、無言の息遣いの後に、澄江の声が聞こえた。
「うちの気持ち、わかってくれはったどすか?」
「澄江はんの言わはること、ほんまにほんまどすな!」
澄江の言葉が、恵美子の揺れ動く心に決定打を与えた。
人間社会とは、一体何者なのだ!
自分たちで自分の首を絞めている。
しかも、そのことをまったく自覚していない。
イエス・キリストが十字架に架けられた今際に言った言葉が象徴的だ。
「神よ!彼らは自分が何をしているのかわかっていないのです!」
あれから二千年の歳月が過ぎたが、我々人間はまだ自分が何をしているのかわかっていない。
わからないように、悪意のある誰かがしているのか。
それなら、解決の方法はある。
無意識のうちに、人間みんながそうなってしまったのか。
それなら、解決の方法はない。
悪意の意識なのか。
無意識の善意の意識なのか。
皮肉にも、世界の20数億のキリスト教徒たちは、偽善という無意識の善意の意識に嵌ってしまっている。
キリスト教と兄弟同士である、14億のイスラム教徒は、偽悪という無意識の悪意の意識に嵌ってしまっている。
せめてもの救いは、悪意若しくは善意の意識だけだが、そんな連中がこの世界に果たしているのか。
恵美子はある決意をした。