(その三)骨肉の争いのはじまり

「鹿ヶ谷さん。あんた、うちの社長どう思うてんのや?」
社内での専務の浩二の評判は至ってよかったのに対して、社長の博はあまりよくなかったが、澄江は反対の意見を浩二にぶつけてみた。
「新しい社長さんは、前社長さんに負けず劣らず、評判がいいんじゃないですか・・・専務さんの評判もいいですが・・・」
澄江の差し障りのない話に、浩二は表情を曇らせた。
「前社長の時代から秘書をしていたあんたや。前社長のことは、頭のてっぺんから、爪先までよう知っとるわな・・・」
シニカルな表現に対して、自分の表情が曇るのを浩二が追いかけている様子が手に取るようにわかる。
「そら、そうどすわな」
澄江は開き直った。
博と浩二は共に同じ大学を卒業するほど、社会人になるまで、仲の好い兄弟だった。
博は東京の老舗呉服卸商・菱一で丁稚奉公を経験したのに対して、浩二は日本一の呉服商社・一田に就職した。
二人の考え方が大きく乖離しだしたのは、この時からだった。
特に弟の浩二の胸の中に、兄の博へのライバル心が湧いてきたのだ。
兄へのライバル心が憎悪心に変質したのは、二人に家族ができたからだ。
古今東西、兄弟同士の骨肉の争いは、お互いに余計な大粒小粒がついた時から始まると相場が決まっている。
「あなただけが、わたしの命」
自己の人生を男に賭けた女。
「おまえだけが、俺の女」
孤独の人生に負けて、伴侶を見つけた男。
永遠の愛を信じて結婚生活に突入する二人は希望に満ちていた。
だが、そんな夢心地は数年も持たない。
先ず、小粒が生まれると女が女でなくなる。
妻から母になる。
女を退職するのが母だ。
「あなただけが、わたしの命」
遠い忘却の彼方にやってしまう。
男も、女に併せて男を退職する。
「おまえだけが、俺の女」
おまえの相手が変わってしまう。
根性のない男は、そこで、根を上げて、同じ繰り返しをする。
それが、女をつくった挙句の離婚劇だ。
そんな、男と女は離婚劇を必ず繰り返す。
根性のある男は、そこで、腹を括る。
『結婚なんて、所詮、狐と狸の化か仕合いだ。もう二度と同じことは繰り返さないぞ!』
「七年目の浮気」とはよく言ったものだ。
そうやって、男と女にとっての家族は、檻のない刑務所に変貌してしまう。
男は、確信のない子供に希望を託すようになる。
その時から、あれだけ仲の好かった兄弟の骨肉の争い劇の幕が切って下ろされる。
博と浩二の間にも、同じ風穴が開いてしまったのである。
その先鞭を切ったのが、浩二の澄江に対する宣戦布告だった。
「あんたと親父との吉祥寺の店での一切合財を、俺は知ってるんやで・・・。社長に知られたら困るんとちゃうか?」
澄江にとって、晴天の霹靂とは、まさに、このことだった。
後になって、よく考えたら、この時の浩二の発言に疑問を持つべきだったのだが、まだ二十代半ばの澄江には土台無理な話だった。
「専務さん。知ってはったんですか?」
澄江は自分から下呂を吐いたのである。
相手の意図が奈辺にあるのか、考える余裕などない。
澄江のあまりの動揺に浩二も躊躇して、次の一手を出す機会を失ったのか、それとも、本音は他にあったのか、本人も確信がない。
「俺は、別にあんたを煮て食うつもりはないんや・・・」
澄江は浩二の本音をその後聞かされたのだが、その時、二人の間の利害計算が合ったのかもしれない。
澄江はその後、博の愛人となっていくわけだが、元々、博に好意を寄せていただけに、きっかけにおける動機の矛盾に蓋をしめてしまった。
澄江の博に対する懺悔が、却って、二人の間の力の均衡を長く保つ原動力になっていくとは、澄江も浩二も、その時は、考えつくべくもなかった。
兄弟同士の骨肉の争いは、その後、大きくエスカレートしていくことになるのだ。