(その三)知ること

「本当にもう帰るんか?」
藤堂頼賢が寂しそうに言った。
「恵美子はん、何か感じることがありはったんやから、今日は止めはらんほうがええんとちゃいまっか?」
玄関まで一緒に送ってきた澄江が藤堂頼賢に言い含めた。
「澄江はん、すんまへん。何から何まで・・・」
すっきりした気持ちで鹿ヶ谷邸の門を出た恵美子にとって、まわりの光景は藤堂頼賢に連れてこられた3時間程前の景色と違っていた。
景色を空間と捉えれば、時間の経過に関りなく同じ空間であるはずなのに、3時間経過した景色と3時間前の景色がまるで違うのである。
逆に言えば、過去・現在・未来という時間は空間、つまり、光景であることを、この現象が証明していることになる。
3時間の経過と共に景色が過去・現在・未来と変化しているからだ。
過去・現在・未来というのは、光景に付いた時間の名札に過ぎず、その正体は光景、すなわち、空間なのである。
記憶や思い出は空間であって、やはり、時間の名札が付いているだけだ。
そもそも時間というもの自体が実体がない。
実体がないから振りまわされるのだ。
鹿ヶ谷邸での3時間の間に、恵美子の内部に大きな変化が起こった結果、3時間前の光景と3時間後の光景の違いを感じる五感能力の変化が起きたのである。
人間の潜在能力は脳の発揮度と言われているが、どうやら、大きな錯覚を人間はしていたようだ。
人間だけが五感機能障害症を患った結果、五感能力の甚だしい低下を蒙ったのが潜在能力の問題なのだ。
自然社会の生きものの五感能力の発揮度は100%であるのに対して、人間だけが20%から30%程度しか発揮し得てないのである。
それは文明化した結果だ。
文明は決して好いことづくめではないのだ。
文明にも必ず罪的側面がある。
自然社会から逸脱して文明社会を構築してきた人間だけが、潜在能力を100%発揮できなくなったのは、文明の罪的側面なのだ。
自然災害も潜在能力を100%発揮できない人間社会だけにあるもので、自然社会に自然災害など一切なく、それは単なる自然現象に過ぎない。
鹿ヶ谷哲夫の話を聞いたことで、恵美子の五感潜在能力が飛躍的に発揮された結果、まわりの景色が違って見えたのだ。
知るということは、人間を変貌させるのである。