(その三)愛は憎しみの不在概念

「如何に『鴨川踊り』が重大な任務を背負っているのか、理解できたかね?」
恵美子は、鹿ヶ谷哲夫がここまで熱弁を奮った理由をはじめて知った。
「藤堂はんは、そのことを知ってはったんどすか?」
藤堂頼賢は首を横に振った。
「彼は、こんな世の中の矛盾を自分でなんとかしようと思っているが、世の中の事実を知っていても、真実を知らないのだ」
鹿ヶ谷哲夫の難解な表現に、恵美子は戸惑った。
「要するに、俺は何もわかってないいうことなんや!」
藤堂頼賢は恵美子に向かって言った。
恵美子の視線が鹿ヶ谷哲夫の方に向けられた。
「現代日本人の大半は知性の破片すらない。
つまり、思考能力のないロボット人間だ。
それに比べたら、彼は知性を有しているが、残念ながら未熟だ。
わたしの言っていることを理解するには成熟した知性が要る。
知性のないロボット人間は、事実すらもわかっていない。
未熟な知性の彼のような人間は、事実はわかっている。
だが、真実がわからない限り、ホンモノにはなれない。
あなたを愛する彼がホンモノかニセモノかの判定は、未熟な知性による『今、ここ』の事実だけにしがみついているのか、成熟した知性による永遠に変わることのない真実をわかっているかに掛かっているのだ」
鹿ヶ谷哲夫は彼女の方に質問を投げかけてきた。
「あなたのおばあさんが亡くなった時の哀しかった気持ちを今でも変わらず持っているなら、哀しがっているあなたはホンモノの自分だ。
つまり、真実の自分がそこにいる。
だが、時の経過と共に哀しみが薄れてゆき、忘却の彼方に消え失せていくような哀しみなら、そんな哀しみなどニセモノであり、その時の哀しみは事実であっても、真実ではないのだ。
どうかね?」
恵美子はその瞬間(とき)、兄の聡のことを思い出した。
「恵美子!お前が欲しいんや!」
恵美子の身体の上に覆い被さって、聡が叫んだ。
「やめて!聡兄さん!」
「ああああ!」
16才だった恵美子は兄の聡を恨んだ。
18才だった聡は、恵美子を自分のものにしたと内心満足した。
『芸妓になったら、きっと旦那がつく。そんな奴に恵美子をやってたまるか!』
愛憎の情念が兄妹の間で燃えあがったのは、この瞬間(とき)だった。
心の表面では、憎しみの情念が燃えあがっているのに、深いところでは、冷えた愛慕が聡に向かって流れ下っている。
そんな気持ちを抱きながら、恵美子は舞妓から芸妓に変貌していったのである。
『愛憎が表裏一体なら、聡兄さんに対する、うちの気持ちは一体何なんやろ?』
『それこそ、ホンモノの自分かもしれへんわ・・・』
恵美子は藤堂頼賢の顔をまともに見ることができなかった。
そんな彼女の変化を鹿ヶ谷哲夫は見透かしていた。
「男は過去・未来に想いを馳せる生きものであり、女は『今、ここ』を生きるものだ。そんな男と女の間には、深くて暗い川が流れているのだろうね・・・」
その瞬間(とき)、恵美子の瞳に涙が溢れた。