(その三)今でも都は京都

「1879年(明治12年)。 郡区町村編制法により、京都に上京区と下京区の2区が置かれ、続いて1889年(明治22年)に上京区・下京区は府管轄下の「京都市」となっていく。
現在の京都市は、伏見市をはじめとする周辺の市町村を編入したため、江戸時代以前からの伝統的な「京都」の範囲は、現在の京都市内の一部に過ぎない。
旧皇室典範では「即位ノ礼及大嘗祭ハ京都ニ於テ之ヲ行フ」とあり、また天皇の所在を示す高御座が京都御所に安置されていることから、天皇の東京行幸以降も京都は依然として都で、特別な機能を有する都市であったが、明治時代以降は肝心の首都機能を消失していき、首都に関する議論を複雑にしている始末だ。
京都は今でも日本の首都である。
京都とは普通名詞としては首都を意味し、東京は京都に対して東の京(東の首都)を意味しており、2つの都である京都と東京が首都である。
天皇の在所を示す高御座は現在も京都御所に安置されており、京都市が現在でも首都のままである。
現に、日本の首都を示すのは行政府の所在ではなく、高御座の置かれている処である。
東京遷都の詔勅が発布されていないから、天皇制が存続する限り、京都が公式には日本の首都である事実に変わりはない。
平安京の頃から、後の京都の基礎となった左京地域を唐の都である「洛陽」に擬えて洛陽と呼び、市内を洛中と、外側を辺土、後に洛外と呼んだが具体的な定義は曖昧であった。
平安時代には洛中は検非違使の管轄で、洛外は山城国府の管轄と考えられていた。
鴨長明の「方丈記」では「京(洛中)は、一条よりは南、九条よりは北、京極よりは西、朱雀よりは東」と記され、「洛外として白河や西京(右京地域)」を挙げている。
辺土のうち、鴨川の東を河東と呼称し、白河や六波羅などがこれに該当した。
『吉記』治承4年11月30日(1180年12月18日)条によれば、安徳天皇が平清盛の六波羅第に滞在中の高倉上皇の元に行幸しようとした際に、記主の吉田経房が辺土への行幸に神鏡を持ち出す事に異論を唱えている。
鎌倉幕府が六波羅に六波羅探題を設置してから、河東は六波羅探題の異称になった。
1288年7月9日(正応元年6月10日)。
伏見天皇による殺生禁止の宣旨が出されたが、その中で、「洛中の外側を『近境』と表現して、東は東山の下、南を赤江(現在の伏見区羽束師)、西を桂川の東、北を賀茂の山と定めている。
鎌倉時代末期の朝廷や室町幕府が酒屋役を洛中・辺土に課しており、応仁の乱の頃から辺土に替わって洛外という語が一般的になった。
室町時代から戦国時代にかけて、三条を境目として北側を上京(かみきょう)、南側を下京(しもきょう)と呼ぶ慣習が生まれ、上京と下京がそれぞれ別個の惣構を持った。
豊臣秀吉による京都改造の際に1587年頃より洛中の検地を行い、続いて1591年には京都中心部を囲うように土居を建設して、土居の内側を洛中、外側を洛外として、洛中内部において更に農村として扱った上野、西の京、中堂寺、九条、塩小路などの村々を除いた洛中地域を特に京中(きょうちゅう)として、上京、下京のそれぞれの町年寄による一定の自治を認めた。
これによって「惣組」(上京町組、下京町組)という近世京都の地縁共同体が形成されていった。
その後、京中を越えて洛中全域そして洛外にも都市部が拡大し、1634年の将軍徳川家光の上洛を機に洛中全域と洛外の一部に地子免除が認められた。
1669年の京都町奉行の設置を機に、門跡寺院を除く寺社の管轄が町奉行となり、直後に始まった鴨川の堤防設置工事の完成(1670年)によって鴨川の河原が消えて水路化し、逆に五条以北の水路が消えたために洛中と洛外を区切る自然条件が大きく変化して急激に洛中の北側に市街が広がって「洛中洛外町続」と呼ばれる都市の拡大のきっかけになった。
町奉行は町の拡大を抑制する方針を採ったが、実際には都市の拡大が先行して町奉行及び新しい町割の是非を審査する新地掛の与力がこれを追認する状況が幕末まで続いた。
この洛外にまで広がった上京と下京が近代以後の京都市の基礎となっていくことになるのだ」
京都という町と日本という国が、四次元時空間で語られたことによって、三次元的歴史観では矛盾だらけのことが、実に明確化されたことに、恵美子も然ることながら、流石に藤堂頼賢もすべてが腑に落ちたのである。