(その三)都の意味

鹿ヶ谷哲夫は京都の歴史を再び語り出した。
「平安京は中国の風水に忠実に設計された都市で四方を山に囲まれ、東に鴨川が西に桂川が蛇行しながら南へと流れている。
内部は都城を模倣した長方形の区画をもっていた。
現在の千本通りが当時の朱雀大路にあたり、真北には舩岡山が位置していたわけだ。
平安時代の律令制の形骸化にともなって次第に本来の領域にとらわれない、鴨川と大内裏である御所を中心とする都市になり、経済的に発展していった。
鎌倉時代にも京都の朝廷は政治機能を発揮していたが、東国支配を強めていた源頼朝に1185年守護・地頭の設置を認め、鎌倉幕府が全国支配を強めたため、京都は相対的に経済都市としての性格を強めていった。
承久の乱を契機に鎌倉幕府は京に六波羅探題を設置して、公家勢力の監視を行っていく。
鎌倉時代末期に足利尊氏が京都の六波羅探題を滅ぼし、幕府滅亡後には京で後醍醐天皇による有名な建武の新政が行われることになるわけだ。
その後新政から離反した足利尊氏が北朝を立て、南北朝時代となると、京都争奪戦が何度も行われる。
南朝が衰微して、室町時代になると京には室町幕府が置かれたために、政治都市として復活する一方で経済発展を遂げ、町衆と呼ばれる有力市民による自治の伝統が生まれた。
三代将軍、足利義満は北小路室町(上京区)に花の御所と呼ばれる邸宅を建造し、応仁の乱で焼失するまで将軍家の在所となり、足利将軍は在所から『室町殿』と呼ばれていた。
戦国時代の端緒となる応仁の乱で、市街、特に北側の大半が焼失し、その後もたびたび戦乱に巻き込まれ、この頃、京都は上京と下京に分かれ、それぞれ『構』によって囲まれていた。
その間は畑になっていたといわれ、室町通りでかろうじてつながっていたらしい。
この後、織田信長、豊臣秀吉の保護と町衆の力により復興していくことになるわけだ。
特に、豊臣秀吉の都市改造は大規模なもので、聚楽第と武家町の建設、内裏の修理と公家町の建設、洛中に散在していた寺をあつめた寺町の建設などを行い、現在でもしばしばその都市構造を確認することができる。
1603年3月24日(慶長8年2月12日)に徳川家康が征夷大将軍に任官され、江戸幕府の誕生とともに政治の中枢が江戸に移った。
しかしながら京都は都であることに変わりはなく、幕府の京都の拠点として二条城が築かれた。
また、文化工芸の中心地として人口は50万人を越え、政治の中心地の江戸や、経済の中心地の大坂と共に、都市として繁栄していったのである。
江戸幕府は京都所司代・京都町奉行を設置して直轄下に置いた。
1867年11月9日(慶応3年)の大政奉還により、統治権が幕府から京都の朝廷に返上されて新政府が誕生し、京都には京都府が置かれた。
しかし天皇が江戸で直接政治をみるため、江戸を東京として行幸・滞在(東京行幸)することになり、太政官(政府)も移動され、その後京都への還幸は延期され、明治天皇は1877年(明治10年)に京都御所の保存を命じた。
ここからが、おかしな日本になっていくことになるのだ・・・」
鹿ヶ谷哲夫の表情は怒りに変わっていた。