(その三)女の出番

「去年の『鴨川踊り』は特別だったのかね?」
鹿ヶ谷哲夫の一言一言は実に重い。
一つ一つの言葉の中に本質が隠されているからだ。
鹿ヶ谷哲夫相手に表相的な現象だけでの判断は許されないことを痛感していただけに、恵美子は即答できなかった。
『なんで、この人と出逢ったことで、『鴨川踊り』が特別なものになったんやろ?』
彼女は自問自答した。
『そもそも『鴨川踊り』がなんで始まったんやろ?』
鹿ヶ谷哲夫の話を思い出した。
「明治5年(1872年)。
江戸に日本の首都を奪われた京都の繁栄を願って仙洞御所で開催された京都博覧会の一環と名打って、観光客誘致の一助として、新緑の京都を美しく彩る『鴨川踊り』が創演された」
『そうなんや!『鴨川踊り』は仇撃ちなんや、京の江戸に対する・・・』
『それも、女の手で・・・・』
京都には日本を代表する多くのものがある。
歴史的遺産の多さでは、日本のみならず、世界的に見ても圧倒的だ。
京都が世界に誇ることができるものは数え切れない。
『そんな中で、『鴨川踊り』が京都の代表になったんは、なんでやろ?』
恵美子は考えれば考えるほどわからなくなる。
歴史で関心があるのは源為朝だけであった藤堂頼賢には思考するべくもないのか、彼は他のことを考えていた。
祇園と八坂神社がそもそもの京都のルーツであることを知っている者は、京都人でも余りいない。
1200年の都を誇る京都の一番は御所だと誰もが信じているが、御所が京都を代表する遺産となったのは明治以降だ。
鹿ヶ谷哲夫は言う。
京都の京都たる所以は「女の町」であったことだ。
“東男に京女”が象徴している。
男は、気っぷのよい江戸の男がよく、女は、優雅で美しい京都の女がよいのだ。
『鴨川踊り』は京都の名誉を挽回する切り札として始まったのである。
鹿ヶ谷哲夫は言う。
「これからは女性社会がやってくる、そんな中で、京都は再び日本の中心になるのだ、いよいよ女性の出番だ!」
新しい社会の主役になる女性に期待をかける鹿ヶ谷哲夫は、恵美子にその理想像をラップさせたのかも知れない。
「あなたは京都の歴史を知っているかね?」
京都の花柳界では、「仕込み」という見習い期間を経て舞妓になる段階で、ある程度の京都の歴史を学び、更には芸妓になってからも定期的に教育を受けるのが決まりであった。
京都を代表している誇りがあるからだ。
しかし、恵美子は鹿ヶ谷哲夫の前では肯定するわけにいかなかった。
「ほんの走り程度です」
鹿ヶ谷哲夫はニタッと笑って話だした。
「京都は日本の歴史的な都であり、京(きょう)、京師(けいし)、皇都とも言われている。
西暦794年(延暦13年)。
日本の首都に定められた都城・平安京は、日本の政治、文化の中心地であった。
東アジアでは古来、歴史的に「天子の住む都」を「首都」と言い、「首都」を意味する普通名詞として京、京師が多く使用されたのである。
西晋では司馬師の諱である「師」の文字を避け、京師を京都と言うようになったようだ。
日本でも飛鳥京や恭仁京などがやはり京都とも呼ばれていた。
平安京は当初から京都とも呼ばれたが、定着したのは平安後期からで、京や京師と併用されていた。
その後、次第に「京の都=京都」が都市の固有名詞のようになっていったわけだ」
今までまったく聞いたことのない鹿ヶ谷哲夫の話に、恵美子は身を乗り出した。