(その三)知らなかった世界

「鹿ヶ谷」家はすべてが開放されているらしく、藤堂頼賢は勝手に玄関の格子戸を開けて入っていき、玄関でも挨拶もしないで靴を脱ぎ出した。
恵美子は藤堂頼賢の袖を引っ張った。
「ここでは堅苦しいことは要らんのんや!」
激しい口調だが顔は笑っているので安心して彼女も草履を脱ごうとした矢先、着物姿の女が現れた。
「まあ、虎はん。どうしはったん?」
と嬉しそうに言いながら、視線は恵美子の方に向いている。
「畑恵美子さんや!今日から世話になるわ!」
度胸の座った女のようだったが、藤堂頼賢の言葉には流石に吃驚したようである。
「ええ!おふたりともどすか?」
藤堂頼賢は残念そうな表情をして返事する。
「ちがうねん!おれ一人だけやねん・・・」
合点がいかない表情で女は恵美子に微笑みかけた。
「彼女は祇園の芸者で毎晩仕事があって、夜も遅いからここから通うわけにいかんねん・・・」
事情を呑み込んだ女の表情が変わっていなかったのを見て安心した所為か、恵美子の方から思わず言葉が出た。
「えらいすんまへん・・・」
女の相好が崩れ、場の緊張は一気に解れた。
「そんな・・・まあ奥までお上がりやす!」
女の一言で恵美子は自分の家のような心地よい錯覚に陥った。
「あのお女(ひと)は?」
お互いに好感を持ってくれたことを一番喜んだのは藤堂頼賢であった。
「スミさんて言うんや・・・」
藤堂頼賢が返事する。
「スミさんて、スミ子はんどすか?」
恵美子が訊く。
「澄江(すみえ)て言うんどす」
女が答える。
「ほんならスミエはんって呼ばせてもろてよろしおすか?」
澄江は微笑ながら頷いた。
三人の間には既に屈託が消えていた。
澄江に案内された奥座敷は茶室になっていて、そこには「あの人」が静かに座っていた。
鹿ヶ谷哲夫は茶釜の前で目を瞑っていたが、藤堂頼賢の大きな声が聞こえていたらしい。
「伏見の家を出てきたのか?」
開口一番がこの調子である。
鹿ヶ谷哲夫は一切のお世辞、お追従といった美辞麗句を吐かない人物であり、古今東西の人物の中で最も忌み嫌うのが豊臣秀吉と徳川家康なのだ。
豊臣秀吉はお世辞だけで天下を取った男だからだ。
徳川家康はお追従だけで天下を取った男だからだ。
両者共に人蕩術だけで天下を取った男だからだ。
織田信長が実力で取った天下の御零れを掠め取るハイエナのような輩は、鹿ヶ谷哲夫にとっては許せないのである。
どんな相手にも歯に衣着せぬ物言いをする。
「澄江、お前も一服頂きなさい」
「はい!」
鹿ヶ谷澄江。41才。独身。
鹿ヶ谷哲夫の末娘で、父の哲夫をひとりで世話をしている。
恵美子は内心仰天していた。
『父娘やったんやわ!』
てっきり女中だと思って気軽に喋っていたからだ。
「源氏の血は端から汚れ切っていたことにやっと気づいたか?」
鹿ヶ谷哲夫は茶室でも胡座をかいている藤堂頼賢に言った。
「そやけど、わたしの過去世は源為朝なんです・・・」
口調は普段とはまるで違う。
「過去世など、そんなデタラメ誰が言ったんだ?」
藤堂頼賢は黙って聞いている。
「死ねば魂など完全消滅してしまうだけだ。魂は肉体の一部に過ぎない。人間としての肉体が崩れたら、人間としての魂も消滅する。だが、肉体を構成している成分は何も変わらず依然そのままだ。水が蒸発して目に見えない水蒸気になってもH2Oという成分に変わりはない。人間としての肉体が死んで焼かれたら70%を占める水分は蒸発して空気中の水蒸気となるだけで消滅など一切しないではないか。肉体は死んでも魂は永遠などといった輪廻転生を主張する宗教などまやかしに過ぎんぞ」
藤堂頼賢は依然黙って聞いている。
『こんな話はじめて聞いたわ!』
恵美子は感動していた。
「お前は盗人の石川五右衛門の血を引いているだけだ!それもいい加減な血だ!」
断言する鹿ヶ谷哲夫の口調は聞いている者を圧倒する。
「父の話は若い人の方が解り易いようどっせ・・・」
澄江がはじめて父・鹿ヶ谷哲夫の前で口を開いた。
「お年寄りは、ご自分の殻で凝り固まっていやはるから、父の話は荒唐無稽に聞こえてしまうんどすな・・・」
恵美子にとってはすべてが新鮮な話だった。