(その二)不幸の一瞥

過去の光景はセピア色だ。
現在の光景は総天然色だ。
未来の光景はセピア色だ。
京都の四季の彩りは、この町がまさにそのことを地で行く光景であることを証明している。
1200年の歴史の積み重ねが、この町の過去をセピア色の光景に凝縮していると同時に、この町の未来をもセピア色の光景に収斂させているのである。
光景は凝縮と収斂の繰り返しだが、光の無い景色になると、ただの空間になって、白と黒の平面になる。
宇宙が膨張と収縮を繰り返すのはマクロの世界だからであり、人間社会というミディアムの世界になれば凝縮と収斂の光景となり、過去と未来の景色となって、光の無い景色になり、ただの空間になるのに、人間はそれを時間と捉えるがゆえに、悩みや四苦八苦の人生を送り、挙句の果てに、人生の結論である死に恐怖するという愚行を繰り返している。
京都という町はその典型であるとも言え、京都のセピア色の光と陰の裏面として1200年間残し続けているのだ。
この町の光と陰の表面(おもてづら)が、新しい世界観をつくる原動力になって、明治維新という類の無い無血革命の発信基地になり得たのである。
それが、現在の光景を総天然色にして、この町の華やかさを彩っているのだろう。
東の都、東京の光景が、過去・現在・未来を十把一絡げの総天然色にしているのと好対照だ。
嘗て、商いの都だった大阪は、今では、過去・現在・未来を十把一絡げの白・黒のみのモノクロにしているから、凋落の一途を辿るのだ。
恵美子が再び家を出たのは、鴨川の堤がセピア色の冬の彩りから、薄桃色の春の華やかさに変わろうとしていた頃だった。
平八茶屋まで歩いた途中で、「今年は花開くのが早いようよ!」と話し掛けてきた鴨川の桜の蕾が、「さあ、これから新しい人生が始まるのよ!」と励ましてくれているようだった。
自然の世界は彼女に応援歌を送ろうとしていたが、豈図らんや、姑息な人間の世界は彼女を修羅の世界に引き摺り降ろそうとするらしい。
蕾が蕾のまま朽ち果てさせ、開花させじと蕾の囁きを逆手に取って邪魔をする。
恵美子の心の中に魔がさした。
生来人一倍臆病な彼女が、芸妓という職業で更に警戒心の強い女にしても、若さゆえの魔がさす。
失望したはずの聡から以前聞いたことを思い出したのである。
まさしくそれが魔だとは想像もできないで。
人生には、宿命の魔と運命の魔があると言う。

宿命の魔がさす

人の一生には 魔がさすときが 七回ある
三十才までに せいぜい 二回だ
五十才代の十年間に三・四回ある
その間に二回ぐらい
だから早死にする世代は三十までか 五十代だ
その間に二回ぐらいあるが まず順調だ
三十才までの魔は 不注意の魔だ
だから 避けることは 可能だ
五十代の魔は 宿命の魔だ
避けること、予防することが 不可能だ
この種類の魔がさすと 神も避けたがる
それなら その宿命の魔と仲良くするしかない
宿命の魔は すこし あまのじゃくなところがある
いやだ いやだ と嫌うと 寄ってくる
すきだ すきだ と追いかけると 逃げていく
不注意の魔は 天使の下僕
宿命の魔は 悪魔の下僕 そして 神の下僕

恵美子は天使の下僕に誘惑されたのだ。