(その二)変貌

現代人間社会では、知性の進化の反転現象が到る所で起こっているようだ。
その結果、五感度がますます鈍ってきているわけだ。
聡の知性を落とす時期がやってきた。
この現象は個人レベルのみならず、家族レベルでも、社会レベルでも、国家レベルでも起こっているのだ。
「聡兄さん、ちょびっと、よろしおすか?」
恵美子は久しぶりに聡の部屋の前に立った。
夢の中の現実の出来事以来だった。
「恵美子!お前が欲しいんや!」
恵美子の身体の上に覆い被さって、聡が叫んだ。
「やめて!聡兄さん!」
「ああああ!」
自分の叫び声で聡は目が覚めた。
『ああ!夢やったんや!』
縁側の廊下の障子は下半分がガラスのため、聡が自分の部屋にいることを確認した上での訪問だった。
「・・・・・・・・・・・・・・」
中から返事がないが、聡の視線が自分の下半身に向けられている気を感じて、恵美子は後ずさりした。
それでも、視線の気は彼女の下半身を追いかけてくる。
子供の頃、鴨川の堤で遊んだ時、蟻が恵美子の足を這いあがっていった感触に似ている。
昆虫の触覚に似た視線の気なのだ。
『1月31日以来、彼は虫になったんやろか?』
恵美子は本気でそう思った。
男は変身するが、女は変貌する。
男は人間から蝶々や虫に変身するが、女は蝶々や虫から人間に変貌する。
恵美子は平八茶屋で蝶々から人間に変貌したが、聡は下鴨神社の「糺すの森」で人間から虫に変身した。
「中に入ってよろしおすか?」
有無も言わせない覚悟で障子を開けた恵美子の前に拡がった光景を、彼女は一生忘れないだろう。
聡の表情はまさに虫のそれだった。
「恵美子!お前が欲しいんや!」
恵美子の身体の上に覆い被さって、聡が叫んだ。
「やめて!聡兄さん!」
「ああああ!」
自分の叫び声で聡は目が覚めた。
『ああ!夢やったんや!』
聡は時空を超えた白昼夢から覚めた。
「なんや恵美子!なんか用か?」
恵美子は単刀直入に訊いてみた。
「聡兄さんは、まだ今でもうちのこと欲しいんどすか?」
女々しい男に変貌していた男には、無意味な台詞だった。
アラビアのロレンスがオスマントルコの将校に犯される場面を恵美子は思い出していた。
砂漠の英雄が、その後の終わりのない泥沼の中東紛争の火種をつくるきっかけは、他愛もない二人の情交にあった。
歴史なんて他愛もないものである。
「聡兄さん、これからどうしはるんえ?」
変身した虫の瞳は虚ろだった。