(その二)変身

「恵美子、聡の様子が最近おかしいんやけど、どうしたんやろか?」
倫子から訊かれ、聡の変化の原因は百も承知だったが、藤堂頼賢のことを知らないと言った以上、1月31日の出来事を話すわけにはいかなった。
「さあ、知りまへんけど、聡兄さん、どうかしはったんどすか?」
倫子に聡の様子を逆に訊いてみた。
倫子の心理状態を確かめてみたかったからである。
「なんか、最近ちょっと気持ち悪いぐらい女々しいんやけど・・・」
『やっぱり、お母はんは直観でわかってはるんや。女(おなご)は怖いわ!』
恵美子はある小説を思い出した。
その小説の名前は「変身」と言う。
人間が虫になる話だ。
チェコのユダヤ人、フランツ・カフカの代表作である。
彼は40歳でこの世を去ったが、彼にとっての40年間のこの世とは、チェコの首都プラハのユダヤ人居留地だけであった。
日課がプラハのユダヤ人居留地を散策することで、日課の散策の中で生まれた思索が虫になる話なのである。
人間の五感度は、潜在能力と正比例しているようだ。
人間の顕在能力は潜在能力の精々20%までだ。
自然社会で生きている他の動物の顕在能力は潜在能力の100%である、つまり、自然の生きものたちはみんな潜在能力をフルに発揮して生きている。
人間も潜在能力をフルに発揮する、つまり、100%の集中力を発揮すると、世の中の真理が実に明確にわかってくる。
自然の生きものたちはみんな悟っていて、悟っていないのは人間だけだ。
人生の究極の使命は悟りだなんて大袈裟なことを言う人間を見て、自然の生きものたちは苦笑しているに違いない。
況んや、そんなことも考えず、ただこの世的成功を追い求めている圧倒的多数の凡人など、万物の霊長どころか虫以下の生きものだとフランツ・カフカは集中した人生の中で思ったのだろう。
中国の老荘思想の荘子もフランツ・カフカと同じような経験をしたらしい。
蝶々になった夢を観た荘子は、夢の世界が現実で、目が覚めている世界が夢だとするなら、人間が蝶々になった夢を観たのではなくて、蝶々が人間になった夢を観ている可能性もあることを喝破した。
自分は人間なのか、将又、蝶々なのか。
変身とは、この可能性に気づくことなのである。
女性はどうやらこのことを本能的に知っているらしいが、男性がこのことを知るのはほぼ不可能に近いようだ。
それだけ男性は頭でっかちの生きものだからである。
逆に言えば、それだけ男性の方の大脳が進化しているわけだ。
爬虫類や両生類では大脳旧皮質しかないのに、哺乳類では大脳古皮質が生まれ、霊長類や人類では大脳新皮質が誕生したのは、一重に頭の位置の変化による。
地球の重力の影響を減らせば減らすほど大脳皮質が厚くなる。
それが知性の進化の正体だ。
聡に起こった変化は、知性の進化の反転現象に違いない。