(その二)怪物を生む町

1200年も日本の都であり続けた京都には怪物が潜む。
そんな町は世界でも限られている。
イェルサレムがその典型であり、イエス・キリストという怪物を生んだ。
「ローマは一日にしてならず」
「世界の道はすべてローマに通じる」
と言わしめたローマでさえ、京都やイェルサレムとは比肩され得ない。
況してや、ロンドンやパリやベルリンやウィーンなど足下にも及ばない。
しかし、その名を京都と言うには可哀想過ぎる。
都が1200年も続いたのは、京都ではなく、平安京である。
京都という名は東京という名と一緒に明治時代になって誕生した。
それまでは、「京」、つまり、「平安京」だった。
イェルサレムも平安京である。
イェルが「平安」の意味で、サレムが「都(京)」の意味だ。
京都はイェルサレムを真似てつくられた町なのである。
京都には、イエス・キリストのような怪物を生む素地がある所以だ。
イエス・キリストは巷間で言われているような愛を説く人物などではなく、まさに逆反逆児だったのである。
娼婦マグダラのマリアをリンチしようとした大衆に対して取った彼の行為は、まさに逆反逆児の面目躍如の一件であるし、拝金主義のパリサイ人律法学者を幕屋から鞭で追い出した一件は、愛を説く人物の面影など微塵も感じさせない。
愛を説く人間を峻烈な十字架刑に処す必要など一体何処にあると言うのか。
逆反逆児だからこそ見せしめが必要だったのだ。
歴史上、反逆児は多く輩出されているが、逆反逆児は滅多に出現しない。
キューバ独立の二人の立役者はチェ・ゲバラとフィデル・カストロだが、その後独裁者になったカストロは所詮在り来りの反逆児だが、結局、最後には抹殺されたチェ・ゲバラこそ逆反逆児だった。
人間社会が如何に捍しい世界かを如実に物語っている。
差別と逆差別は所詮同じ穴の狢である。
差別する者は逆差別を要求する者を懐柔して差別を維持しようとし、逆差別を要求する者は差別される者の中で差別をしようとする。
差別する側も、差別される側も、所詮は、支配する者と支配される者とに収斂されて行く。
それが、捍しい人間社会だ。
逆反逆児はそれが許せないのである。
藤堂頼賢はそれが許せないのである。
八幡太郎義家と鎮西八郎為朝の違いがここにある。
八幡太郎義家は東を目差した。
その結果、源氏の本拠地が鎌倉になり、源氏が坂東武者の代表になったが、そもそも坂東武者の代表は平将門であることを忘れてはならない。
鎮西八郎為朝は西を目差した。
だが、鎮西八郎為朝は最後には伊豆沖の大島に流されて一生を終えたが、鎌倉幕府の布石を打った。
八幡太郎義家の直系の頼朝など足下にも及ばない。
頼朝など末弟の九郎判官義経無くして存在し得ない。
怪物の本領は逆反逆児にあるが、歴史は彼らを抹殺してきた。
現代の逆反逆児、藤堂頼賢が何処まで歴史に挑戦できるか、そのバロメーターが「新しい時代」に掛かっているのだ。
「新しい時代」を生むには、怪物を生む土壌が要る。
嘗て、明治維新を生んだのは、坂本竜馬のような怪物を育てた京の都だったように、平成維新を生むのは、藤堂頼賢のような怪物を育てる土壌が要る。
今再び、京の都は歴史の試行錯誤の対象になっているのだ。