(その二)あの人

父親の藤堂高順と衝突した藤堂頼賢は、居間で待っていた恵美子を連れて、ある場所に行こうとした。
「おじいちゃん、おばあちゃん、おれ家出て行くわ・・・」
父親には捨て台詞を吐いても、祖父母にはできないのは、やはり隔世遺伝の所為だろうか。
「また高順とやったんか?」
「ほんまにもう・・・・・」
祖父母が揃って嘆息をついている。
「恵美子はんいいましたな。こんなことはしょっちゅうどすえ・・・」
祖母が微笑ながら言った。
「いや、ばあさん!こんどは本気みたいやで・・・」
祖父は同性だけにさすがに藤堂頼賢の真意を掴んでいるようだ。
祖父が続けた。
「いつかこんなことになるやろ思とったから・・・びっくりすることもあらへんわ・・・なあ虎よ・・・」
恵美子は事情が呑み込めないでいたが、事態の深刻さは理解していた。
「あの人のところに身を寄せようと思ってるんやけど、おじいちゃん、ええやろか?」
浮き世の柵は疾うの昔に捨てたはずの祖父の額にたて皺が寄った。
「ああ、そうやのう。おまえのええようにしたらええ・・・」
祖母は黙っている。
そんな二人の様子を見て、恵美子はますます事の深刻さに圧し殺されそうな気分になったが、口を差し挟むわけにはいかなかった。
「おれと一緒に来てくれへんか?」
藤堂頼賢は恵美子に言った。
藤堂家の邸を出た二人が黙々と歩いている間、恵美子の脳裏にいろいろな事が浮かんでは消えてゆく。
『あの人って、一体誰やろか?』
『ここ、服部はんから声掛けられたとこやわ・・・』
二人が伏見の商店街に差しかかると、恵美子は数時間前に起こった事故のことを思い出した。
些細な事故が二人のその後の人生を大きく変えることなど、彼女は思いもよらなかった。
商店街を通り過ぎたところで、やっと藤堂頼賢が口を開いた。
「御所ノ段町って知ってるか?」
芸妓という仕事柄、お客の住まいを把握することは裏技の一つである。
恵美子は京都の地図は大抵知っているが、彼の言う場所は聞いたことがなかった。
「いえ、知りまへん」
「鹿ヶ谷通りは知ってるやろ?」
「ええ、それは・・・。銀閣寺はんに行く道どすな・・・」
藤堂頼賢の表情が崩れた。
「『哲学の道』と平行して走ってる道やけど・・・これから訪ねる人が『鹿ヶ谷』さん言うんや・・・」
彼の意図を掴めないまま生返事することが、どれだけ危険であるかを重々承知しているだけに、恵美子は黙ってしまった。
「『あの人』って言うてたお人が、鹿ヶ谷さん言うんどすか?」
藤堂頼賢の表情が崩れたのを観て安堵したが、追い討ちを掛けることは更に危険だから、再び、黙ってしまった。
「おれが師と仰ぐ人で・・・・、お爺ちゃんも尊敬してる・・・」
恵美子は吃驚した。
『あのおじいさんまでが、尊敬してるって一体どんな人なんやろ?』
恵美子の特筆すべき性癖の一つである好奇心がむくむくと湧いてきた。