(その二)係累

石川五右衛門はただの盗賊ではない。
義賊と言った方がいいだろう。
石川五右衛門はただの義賊ではない。
伊賀忍者の頭領、服部半蔵の祖先と言った方がいいだろう。
服部半蔵はただの忍者ではない。
太秦を拠点に全国にネットワークを張り巡らした渡来人の秦一族を祖先に持つ。
渡来人の秦一族は、中国をはじめて統一した秦の始皇帝を祖先とする。
藤堂家の祖先は、畢竟(つまるところ)、秦の始皇帝まで遡るわけで、日本の天皇家の比ではない。
況んや、尾張中村の百姓の出、豊臣秀吉など足下にも及ばない係累を持つ家柄なのである。
そんな石川五右衛門が伏見城を築城した豊臣秀吉に反逆したのは、それまで、帝の下世話をしていた伏見の住人を不可触民という、百姓よりも劣る最下層の人非人に秀吉がしてしまったからだ。
「士農工商」という階級制度を、日本ではじめて制定したのは徳川家康だが、その走りを付けたのが豊臣秀吉だったわけである。
「士農工商」を制定した徳川家康は、「士農工商」の下に穢多、非人という賎民を置き、被支配階級による支配階級への反逆を逸らそうとする政策を採った。
その元祖が、選りにも選って、百姓出身の豊臣秀吉だったとは、人間とは何処まで愚かなのだろうか。
石川五右衛門はそんな豊臣秀吉を許せなかった。
事ある毎に伏見城に忍び込み、高価な茶器などを盗み出しては他の大名に売り飛ばし、得た貨幣を伏見の人たちに分け与えていた。
石川五右衛門が義賊と呼ばれた所以だ。
秀吉は徹底した捜索を実施して、遂に、石川五右衛門を伏見城下で拿捕した。
伏見の住人を懐柔して、石川五右衛門を裏切らせたのである。
捕まった石川五右衛門は秀吉によって釜茹の刑を言い渡され、見せしめのため、その一子も同じ刑に処すという峻烈なものだった。
石川五右衛門は必死で自分の子供を守り抜いた。
罪の意識に苛まれた伏見の住人たちも、そんな石川五右衛門の気持ちに応え、子供を釜茹から救い出したのである。
救い出された子供は、秀吉の追求から身を隠すため、藤堂順春(よりはる)と改名され、以降、藤堂家は伏見の守り神として、人々から敬われるようになっていくのである。
藤堂頼賢の名が「よりかた」で呼ばれる所以がここから来ている。
藤堂伊賀で有名な伊賀焼きには、有名な茶器が多いが、寛永年間(1624〜1644)、つまり、三代将軍、徳川家光の治世下、伊勢津藩主、藤堂高次の時代に完成されたものであるが、服部半蔵はその時大活躍した伊賀忍者だ。
藤堂家が大名として勃興したのは、安土・桃山時代から江戸時代前期で、織田信長によって滅ぼされた浅井長政、豊臣秀吉の実弟、羽柴秀長らに仕え、秀吉に召された宇和島藩主、藤堂高虎である。
伊勢・伊賀32万石の大名だ。
藤堂頼賢が、「虎」と呼ばれている真の意味はここにあったのだ。