(その二)一寸先は闇

「恵美子さん!」
伏見の商店街を駅に向かって歩いていた恵美子の背後から、聞き覚えのある声がした。
職業柄か、徹底した警戒心が働いた。
『服部はんや!』
恵美子は振り返らなくともすぐに察知した。
『振り切るか・・・、虎穴に入るか・・・』
虎穴に入ったら必ず虎児を得るとは限らない。
時には、親虎と出喰わすこともある。
一寸先は闇ということだ。
しかし、ヒントはある。
一寸前の事実がヒントになる。
一寸先と一寸前を繋いでいるのが『今、ここ』であって、決して現在ではない。
過去と未来を繋いでいるのは確かに現在だが、そんなものはすべて幻想の映像に過ぎない。
一寸先と一寸前を繋いでいるのが『今、ここ』という現実(実在)である。
恵美子は服部を振り切ることにした。
『今回は虎穴に入ったけど、虎児を得ることはでけへんかったから、もう虎穴に入ることはせえへん・・・』
学習能力に優れている証拠だ。
一方、服部崇は学習能力に劣っていた。
嘗て、祇園を出たところで、母親の倫子に声を掛けられたことがある。
倫子は学習能力に優れているから、状況判断をきっちりした。
「恵美子さん!恵美子さん!」
服部の声が近づいてくる。
恵美子を追い掛けて来ているのだ。
『嫌やわ!』
地団駄踏む恵美子にお構いなしに迫ってくる服部崇との距離が1mにまでなった瞬間、「ドカン!」という大きな音が突然したので、彼女は思わず後ろを振り返った。
小学生らしき子供が自転車ごと服部崇と衝突した音だった。
自転車の子供がコンクリートの道路に頭から叩き落とされ、右顔面から血が噴き出ている。
「わあぁぁぁ!」
自分の方から衝突しながら、そこは分別のつかない子供だから、喚くような泣き声を発したため、周囲の人間の敵意の視線は一斉に服部崇の方に向けられた。
恵美子はその場を立ち去る隙を勝ち得たが、生来の性格が擡げて、体が言うことを利かない。
泣き喚く子供を咄嗟に抱き上げている自分に気づいたが、後悔の念は決してなかった。
「坊や、大丈夫?」
そんな自分に驚くとともに、自分の中にも新しい生命が宿っていることを強烈に意識する結果となった。
「恵美子さん・・・」
横で立ち竦んでいた服部崇が何かを感じたようだった。
「恵美子さん、これは僕の責任やから、恵美子さんはもう行ってください!」
意志が強く表れた言葉に彼女も何かを感じたようだった。
恵美子は小さく会釈をすると、人目を憚るように、その場を立ち去った。
『何処でどんなことが起こるかわからへんけど、また、どうにかなるもんやわ・・・』
そう思うと、新たな挑戦意欲が湧いてくるのだった。
『もういっかい、藤堂はんとこへ行ってみよかな・・』
恵美子の足先は再び帰ってきた道に向いていた。