(その二)猿と猿まわし

一旦は勢いに任せて藤堂頼賢の家まで尋ねていったが、機会の女神が、恵美子にまだ味方したらしい。
当の本人もそのことを充分理解していた。
『いつか、藤堂はんと心開いて話をしたいわぁ・・・』
『夫婦にならんでもええから、心開いて話をしたいわぁ・・・』
この世のことは、上手くできている。
どんな出来事でも決して一面的ではないことだ。
どんな出来事でも必ず、両面性を持っている。
愚かな人間だけが、一面的にしか捉えられない。
部分観と言ってもいいだろう。
こんな逸話がある。

“ある猿まわしがいた。
猿と猿まわしはお互いに信頼関係にあった。
ある日の朝、猿まわしが猿に訊いた。
ここに七つの栗の実がある。
お前には一日二回の食事を与えていることは、お前もよく知っている。
朝の食事と夕方の食事の二回だ。
ここにある七つの栗の実は、きっちり半分に分けることができない。
だから、朝の食事に三つ、夕方の食事に四つ与えようと思うがどうか?
猿まわしは悟りを開いているから、内なる心が大海の海のようにいつも穏やかで静かだ。
猿は悟りを開いていないから、内なる心が狭い河のようでいつもざわざわしていて騒がしい。
ご主人さま!それは困ります!朝の食事で四つにしてください!
猿まわしは驚きながら言った。
朝の食事に三つ、夕方の食事に四つでも、朝の食事に四つ、夕方の食事に三つでも、全部では七つだから同じじゃないか!
猿は主人の猿まわしの言っていることが理解できなかった。”

頭で立って生きている人間が猿だ。
足で立って生きている人間が猿まわしだ。
こんなことも理解できないのが、大半の人間だ。
地球上の生きものは、人間も含めてすべて、地球の自転と公転運動の影響を受けて生きている、つまり、一日と一年の繰り返し運動が基本にある。
一日で自己完結し、一年で自己完結するわけだ。
一日を全体、一年を全体とすることが全体感である。
猿まわしは、一日を全体として観ているから、朝に三、夕方に四でも、朝に四、夕方に三でも、全体では七だから問題はないと捉えるが、猿は一日を全体として捉えられず、朝と夕方を分けて捉える部分観しかないから、朝に三、夕方に四と、朝に四、夕方に三とは大いに違うと観えるわけだ。
全体感なら、自分と地球は一体だが、部分観なら、自分と地球は別だと思っている。
地球の「想い」を理解できずに、頭で立っていることを自覚できないのは当然だろう。
一見、不幸な事態がやってきても、それは、朝に三、夕方に四だけのことで、一見、幸福な事態がやってきても、それは、朝に四、夕方に三だけのことで、一日を全体として観たら、七に変わりはない。
幸福と不幸の関係は、所詮、そんな部分観の副産物に過ぎず、全体感では、幸福も不幸も超えてしまうことを、頭で立っている者は理解できず、理解している足で立っている者を変人扱いする。
これが大半の逆さま人間だ。
イエス・キリストを十字架に架けた一般大衆を、今わの際に神に訴えた、“神よ!彼らは自分が何をしているかわかっていないのです!”の彼らこそ、大半の逆さま人間のことだ。
この世のことは、上手くできている。
どんな出来事でも決して一面的ではないことだ。
どんな出来事でも必ず、両面性を持っている。
恵美子は、何となく、わかっていた。
母の倫子と同じ、足でしっかりと立って生きる人間に確実に成長しているのかもしれない。