(その二)黒の舟歌

勢いに任せて藤堂頼賢の家まで尋ねてきた恵美子だったが、藤堂家が石川家という訳のわからない世界が大きな壁となって、せっかくの勇気に水を差してしまった。
勇気は持続できない。
一瞬の隙に臆病風が入り込むため、勇気を奮った後には必ず躊躇(ためらい)が忍び寄ってきて、最後には、後悔と自責の念に苛まれる。
まさに、勇気と臆病は表裏一体のコインなのだ。
一度、勇気に臆病風が通り過ぎると、更なる臆病風が追い討ちをかけるように襲ってくる。
現代風の女性なら、ここで何の躊躇(ためらい)もなく門のチャイムを押すのだろうが、祇園の芸妓という優越感の背後で劣等感が渦巻いている複雑な心理の女性には相当の勇気が要るらしい。
腹を据えることには馴れているが、今回はそう簡単にいかないらしい。
所詮、21歳の女なのだ。
『うちは陰の女でもあらへんのに・・・なんでこんな想いになるんやろ?』
そう想うと留めどなく涙が溢れ出した。
『旦はん』がいる芸妓は愛妾の立場にあるから、御台所とはどうしても陰日向の陰の立場になる。
女心と常に葛藤する辛い立場だ。
そんな女性を嫌というほど見てきた恵美子だけに、自己憐憫に陥りやすくなるのだ。
自己憐憫は女性の十八番(おはこ)だ。
男性にも自己憐憫の情になることは稀にあるが、女性には日常茶飯事だから、男女の間に埋められない深淵の原因の一つになっている。
恵美子は、藤堂頼賢の好きな「黒の舟歌」を思い出した。

男と女のあいだには
ふかくて暗い 河がある
誰も渡れぬ河なれど
エンヤコラ今夜も舟を出す
ROW & ROW
ROW & ROW
ふりかえるな
ROW & ROW

おまえが十九 おれ二十
忘れもしない この河に
ふたりの星の ひとかけら
ながして泣いた 夜もある
ROW & ROW
ROW & ROW
ふりかえるな
ROW & ROW

あれからいくとせ 漕ぎつづけ
大波小波 ゆれゆられ
極楽見えたこともある
地獄が見えたこともある
ROW & ROW
ROW & ROW
ふりかえるな
ROW & ROW

たとえば男は あほう鳥
たとえば女は わすれ貝
まっかな潮が 満ちるとき
失くしたものを 想い出す
ROW & ROW
ROW & ROW
ふりかえるな
ROW & ROW

おまえとおれとの あいだには
ふかくて暗い河がある
それでもやっぱり 逢いたくて
エンヤコラ今夜も 舟を出す
ROW & ROW
ROW & ROW
ふりかえるな
ROW & ROW

留めどなく溢れ出ていた涙が枯れ果てた時、恵美子はやって来た道を戻って行った。